聞こえる、恋の唄
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第16章
「雅流の婚約」
………<4>………

御園が額を押さえている。

志野、志野――不意打ちのように、連呼された自分の名前。

この返答しだいでは、家を出て行かなければならないことは判っていた。

志野は自身の顔が蒼白に変じていくのを感じながら、動かない雅流の眼差しを見つめ続ける。

その刹那、彼にどのような答えを望んでいるのか、自分でも本当に判らなかった。

「志野……さん、ですか」

やがて雅流は呟いた。

困惑というより、忘れきっていた何かをふいに目の前に突きつけられたような、呆然とした口調だった。

「そうよ、志野よ」

鞠子が急かすように膝を進める。

「あの子が今どこにいて何をしているのか、お前、知りたいとは思わないの」

雅流は、わずかに眉を寄せた。

しばらくの間があった。

「あの人について、今、僕が言えるのは」

志野は、心臓がしびれるほど痛くなるのを感じた。

「かつて、そういった人が、うちの家におられたということだけです」

何かを喋ろうとした鞠子が押し黙り、御園が顔を上げるのがわかった。

雅流一人が静かなたたずまいのまま、呆けたような沈黙があった。

「それだけなの」

「ええ」

「会ってみようとは思わないの」

「まさか」

雅流は笑った。そして、笑顔の余韻を唇の端に残したまま、落ち着いた所作で、三味線を取り上げる。

「うちには、一切関係のない人ですから」

きっぱりとした口調であった。

再び室内に三味線の音色が流れ出す。

「雅流」

御園の、憤りとも悲しみともつかない声がした。

今、奥様が怒っておいでなのも悲しんでおいでなのも、全て私のためだろうと志野は思った。

それだけで胸が熱くなるほどだった。

「母さんも、姉さんも」

指を一時止めて、雅流は言った。

「あの人のことは、もう二度と口にしないでください」

うなだれた御園の肩が、目に見えて萎れている。

鞠子の背中も動かなかった。




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