■■■■■■■■ 聞こえる、恋の唄 ■■■■■■■■ 第16章 「雅流の婚約」 |
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御園が額を押さえている。 志野、志野――不意打ちのように、連呼された自分の名前。 この返答しだいでは、家を出て行かなければならないことは判っていた。 志野は自身の顔が蒼白に変じていくのを感じながら、動かない雅流の眼差しを見つめ続ける。 その刹那、彼にどのような答えを望んでいるのか、自分でも本当に判らなかった。 「志野……さん、ですか」 やがて雅流は呟いた。 困惑というより、忘れきっていた何かをふいに目の前に突きつけられたような、呆然とした口調だった。 「そうよ、志野よ」 鞠子が急かすように膝を進める。 「あの子が今どこにいて何をしているのか、お前、知りたいとは思わないの」 雅流は、わずかに眉を寄せた。 しばらくの間があった。 「あの人について、今、僕が言えるのは」 志野は、心臓がしびれるほど痛くなるのを感じた。 「かつて、そういった人が、うちの家におられたということだけです」 何かを喋ろうとした鞠子が押し黙り、御園が顔を上げるのがわかった。 雅流一人が静かなたたずまいのまま、呆けたような沈黙があった。 「それだけなの」 「ええ」 「会ってみようとは思わないの」 「まさか」 雅流は笑った。そして、笑顔の余韻を唇の端に残したまま、落ち着いた所作で、三味線を取り上げる。 「うちには、一切関係のない人ですから」 きっぱりとした口調であった。 再び室内に三味線の音色が流れ出す。 「雅流」 御園の、憤りとも悲しみともつかない声がした。 今、奥様が怒っておいでなのも悲しんでおいでなのも、全て私のためだろうと志野は思った。 それだけで胸が熱くなるほどだった。 「母さんも、姉さんも」 指を一時止めて、雅流は言った。 「あの人のことは、もう二度と口にしないでください」 うなだれた御園の肩が、目に見えて萎れている。 鞠子の背中も動かなかった。 |
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