聞こえる、恋の唄
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第16章
「雅流の婚約」
………<2>………

「しず」

はい、と思わず答えてしまうところだった。
それほど、雅流の呼び方は自然だった。

「もしよければ、これからもずっと、母さんの傍にいてはもらえないか」

志野は黙って、眉を寄せた。

自分の進退については、すでに思いを定めている。

いつまでも雅流を騙しとおせるはずはない。
なるべく早いうちに――と思いながらも、志野が躊躇しているのは、最近めっきり元気のなくなった御園が気がかりだからである。

「母さんは、俺と一緒に暮らすことを望まないだろう。ふと言われたのだが、お前と一緒に三味線の教室をやってみたいと言っておられた」

(私と……)

はっと胸が詰まるような思いだった。

志野はうつむき、瞬きをした。
奥様が、そこまで私のことを思ってくださっている。

「結婚は、まだ俺には早いと思ったが、黒川の家元が窮しているのでお受けすることにした。気がかりは母さんのことだが、それもお前がいれば、大丈夫だろうと思った」

うつむいたまま、志野は何も言えなかった。

そんなにまで、雅流に信頼されていることが、嬉しくもあり意外でもあった。

生涯、御園の傍に仕えるということは、志野の願いでもあり、本懐でもある。

が、同時に、雅流の人生とも離れがたい位置に居続けるということでもある。

 それが――本当によいことなのか。

「母さんは、お前のことを随分大切に思っているようだ。俺が信楽に行けば、母さんは寂しがるだろう。お前がいれば、母さんも励みになると思うんだ」

そこで雅流は言葉を切り、ふと何かに気付いたような眼になった。

「以前も、母さんが、ひどく大切にしていた娘がいた」

志野は身を強張らせていた。

しかし、わずかに黙った後、雅流は息を吐くようにして笑った。

「返事はいつでもいい、ゆっくりと考えてくれ」

それきり、自分が言った言葉など、なかったかのように三味線を弾き始める。

(何を……仰りたかったのだろう)

一瞬、身体ごと強張るような不安に襲われたものの、志野はすぐに気を落ち着かせて、一礼してから立ち上がった。

いつものように、縁側に続く障子をそっと開ける。

冬晴れの一日で、陽射しは白いほど明るく、庭先に光の粒を降り注いでいる。

そうして振り返った時、初めて雅流が、どこか眩しげな表情をしているのに気がついた。

――いけない。

視力がなくても、明暗は判るのかもしれない。
確かに今日の陽射しは目を射るほどにきついものだ。

志野は慌てて障子を閉めた。

襖を閉めて廊下に出ると、しばらく途切れていた三味線の音色が聞こえてきた。

その音に耳をすませ、普段よりわずかに乱れた旋律を多少気がかりに思いながら、志野は、こんな時間もあとわずかだと……自分を戒めるような気持ちで考えていた。

廊下の向こうから、けたたましい足音が聞こえてきたのはその時だった。


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