聞こえる、恋の唄
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第16章
「雅流の婚約」
………<1>………

「最近、母さんの様子がおかしいようなのだが」

いつものように、稽古の相手を終え、退室しようとした時だった。

秋は瞬く間に終わり、来週から十二月も二週目に入る。

一年の終りの時節、櫻井家の周辺でも何かと慌ただしい日々が続いていた。

落ち着いた色味の和装のせいか、その日の雅流はいつも以上に老成してみえた。

「しず、お前に何か、心当たりはないだろうか」

志野は、膝をついたまま、眉を寄せる。

心当たりはひとつしかなかった。

あなた様の、ご結婚のことではありませんか――。

そう言いたいのだが、むろん言葉で伝えられない。

仕方なく、手を二度叩いた。
判りません。
そう答えるしかない。

雅流と信楽江見の婚約が本決まりになったのは、先週の半ばのことである。

御園が激しい剣幕で鞠子に電話をしていたため、聞くともなく聞いてしまったが、雅流は、御園の了解を得ることもなく、一人で返事をしてしまったようなのだ。

「……まぁ、お前に聞いても、仕方のないことだな」

雅流は嘆息して居住まいを正し、手にした楽器を膝の前に置いた。

もちろん、理由は雅流も察しているのだろう。

ただ、どうして御園が頑なに反対するのか、その一点が理解できないでいるに違いない。

志野は少し考えてから、雅流の傍に膝をすすめた。

気配を察したのか、雅流は微笑して、右の手を差し出す。

大きな手を捕らえ、志野はそっと、手のひらに文字を綴った。

こうやって会話するのはもう馴れたが、手と手が触れあう度に、今でも心臓が高鳴るのを感じる。

ごしんぱいはふようです

「うん?」

すぐにごきげんがなおるとぞんじます

「そうかな。母さんは頑固だからな」

雅流は白い歯を見せた。

弟子にも、師にも、決して表情を崩さない雅流だが、しずという女の前では、不思議に心を開いている。

三味線のせいだろう。

志野はそう思っている。

一度心が触れあった日から、殆んど連日、二人は休むことなく、三味線の稽古を続けている。

時に夜を徹し、寝食を忘れ、御園に叱られるほどである。

志野には、雅流がたどり着きたい境地が手にとるように判る。

だからひたすら、その手助けとなるよう譜面を読んで思考を凝らす。

乞われれば何度も撥を持ち、雅流が納得するまで弾き続ける。

厳しい思考錯誤と血のにじむような鍛練の末、ようやく雅流の音に天上に昇る光が見え始める。

その度に志野はそっと涙を拭い、雅流は目を閉じて押し黙り、深い感動を二人で共有するのだった。

不思議だった。

これが雅流と志野だったら――。

魂が重なるほどの一体感を、決して、共有することなどできはしなかったろう。

いったい自分は、雅流の何を知っていたのだろうか、と最近の志野はことあるごとに思う。

このように優しい笑い方をする人だったのだろうか。
ささいなことで、例えば雨上がりの草木の雫が指先を濡らしただけで、子供のように明るい目をする人だったろうか。

同じように、雅流もまた、本当の意味で志野という女を知らなかったのではないか。

しずという女は、雅流にとっては口の聞けない女中だが、結局は志野そのものなのである。

なのに、これほど近くにいながら、しずの素性に疑う素振さえ見せない雅流は、六年前、もしかすると、自身で作り上げた幻に恋していたのかもしれない。


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