■■■■■■■■ 聞こえる、恋の唄 ■■■■■■■■ 第14章 「忍ぶ想い」 |
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筋張った大きな手は、昔、志野の手から三味線を奪い取った時のものと変わらない。 頬に触れ、涙を拭ってくれた無骨な指と変わらない。 互いの匂いさえ届きそうな距離に、緊張が解けた今でも、志野の指先は震えている。 「ありがとう」 礼を言われ、志野はほっと息を吐き、引き下がって手を一度叩いた。 手馴れたもので、雅流は過たずに茶碗を手にし、丁寧な所作で唇に当てる。 空になった茶碗を盆に置き、初めて少し不思議そうな目になったが「ありがとう」再度言って、それきり再び、雅流は、音の世界に没頭していった。 茶の味に問題でもあったのだろうか、と志野は気がかりに思いながら、盆を引く。 寡黙な雅流の感情を読み取るのは、目の表情がないだけに、昔以上に難しかった。 立ち上がった志野は、ふと気づいて、縁側に抜ける障子を開けた。 締め切った室内は薄暗い。 目の見えない雅流には、部屋の明暗などどうでもいいのかもしれないが、それでも暗い室内に、彼一人残しておくのは、ひどく寂しいことのような気がした。 稽古場を出た志野は、台所に立ち、昼食の支度を始めた。 窓から見える庭の銀杏が、気づけば黄色く色づいている。 (こちらに来て、そろそろひと月になるのかしら……) 最初は耐えがたかった雅流と二人きりの時間も、今では苦にならなくなった。 雅流は――実際、同居している志野には全く無関心だったからだ。 目が見えない人というのはそういうものなのかもしれないが、雅流に至っては、同じ家に他人がいようといまいと、全く関心がないらしい。 (もしかすると、私の名前さえ、この人は覚えていないのかもしれない) そんな風にさえ、思えてしまう。 それでも曲に行き詰まると、雅流は必ず志野を呼び、三味線を弾かせて、聞きながら覚える。 曲をある程度飲み込むと、今度は逆に邪魔になるようで、そっけなく「もういい」と言われて退室させられる。 毎日は、ほとんど同じことの繰り返しだったが、気がつけば少しずつ、雅流の傍にいる時間が増えているようでもあった。 午後になり、お弟子さん相手の稽古の時間になると、志野は台所や外回りの掃除を始める。 あまり、他人と顔を合わせたくないからだ。 気をつけてはいるが、どこに昔の顔馴染みが混じっているか判らない。 雅流の弟子は、大半が年配の女性だが、二十歳前の若い女性も何人か混じっている。 彼女たちが――雅流の目が見えないのをいいことに、どんな表情で何を囁き合っているか、志野はよく知っていた。 「新しい女中さん、見た?」 「見た見た、どんな方なのかしらって心配したけれど、あれじゃあ心配しなくていいわね。あの顔、恥ずかしくないのかしら」 化粧をすれば、ほとんど気にならなくなりますよ。 御園はしきりに勧めてくれるが、主人の供をして人前に出ることでもない限り、志野は傷を隠そうとはしなかった。 隠さない事で、私はこう言う女で、二度と望みなど持ってはいけないのだと――強く自分に言い聞かせていた。 雅流の奏でる音色が、庭を掃く志野の耳にまで響いてくる。 目を閉じて、その一時、迸る音色に心を重ねる。 今日は……澄んでいらっしゃる。 毎日聴いている志野には判る。 もの言わぬ彼の感情が――音色の落ち着きだけで、はっきりと伝わってくる。 曲を習い始めた頃の苛立ちや焦燥は、もはや完全に消えている。 この一時、志野は確かに幸せだった。 夢を見てはいけないと知っている。 永遠に続かないことも知っている。 でも――。 それでも志野は感謝した。 こんな時間を――くださった奥様に、全ての偶然に感謝した。 |
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