■■■■■■■■ 聞こえる、恋の唄 ■■■■■■■■ 第13章 「再会の時」 |
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高岡さま。 あなたのご親切に、一度だけおすがりしてもよろしいでしょうか。 どうか私を、あなたさまのかりそめの婚約者にしていただきたいのです。 理由はくわしくは申せません、ただ、私がお屋敷にいることで、奥さまやご家族の人たちに大きなご迷惑がかかるということと、私のために、大切な人たちが笑いものになるのだということをご理解ください。 奥様に受けた恩を仇で返さないためには、私が結婚という形であのお屋敷を辞去するほかないのです。 ご迷惑は重々承知しております。 前も申しましたとおり、私はあなたさまの妻になる資格のない、薄汚れた女でございます。 それでもあなたさましか頼る者のない私をどうか哀れと思い、ほんの一時、奥様をあざむくという、耐えがたい罪を引き受けてはくださいませんでしょうか。 このご恩は、一生かけてお返しさせていただきます。 兵馬さま しの 御園は――吐胸をつかれるような思いだった。 これはどういうことだろう。 この手紙は、間違いない、志野に、雅流が求婚していることを伝えたその日に書かれたものだ。 「……奥様、私は嘘をつきました」 きれぎれの声が聞こえた。 「私は……志野さんの思いつめた気持ちが判るだけに、彼女の嘘に口裏を合わせることに決めたのです、――そう、母にも頼んだのです」 再び土下座したままの姿勢で、高岡は泣きむせんだ。 「志野は……では、どうしているのです……」 自分の声とは思えないうつろな声で、御園は呟いた。 どうして今まで、想像することさえしなかったのだろう。 志野とはそういう娘だったのに。 間違っても主人の意にそむくようなことをしない娘だったのに。 稲妻に打たれたように、刹那に御園は理解した。 志野は――察したのだ。 敏感に理解したのだ、主人の心の底にひそんでいたものを――御園が内心、この結婚を、ひどく愁いていたことを。 「……お屋敷を出て……志野さんは、うちを訪ねてきたそうです。僕はもういませんでしたが……」 「志野さんは、お詫びにいらしたのです」 言葉を継いだのは、高岡の母親だった。 「聞けば行く当てもないというので、しばらくお引止めすることにしたのです。ちょうど……人手がなくて、私も病に伏せておりまして……農作業も忙しい時期でしたから……志野さんは、それはよく手伝ってくださいました。私は何度も、この人が息子の嫁にきてくれればと思ったものです」 母も涙ぐんでいた。 「……たまに多くいただいた野菜や米を、私はお礼がわりに志野さんに分けてあげたのです。お金の代わりに、いえ、あの人はお金など決して受け取らない人でしたが……けれども」 母は言葉を途切れさせた。 土下座したままの、高岡の肩も震えている。 「あの人は、それを全部、櫻井のお屋敷に届けていたのでございます。肩の骨が突き出すほど痩せて、あの娘もひどく飢えていたのに……私も後から知って驚いたのですが、いくら止めてもやめようとは致しません。自分の食べるものを切り詰めては、それをお屋敷の人に、こっそり渡していたのでございます」 御園は手で口を覆っていた。 いくら食料が底をついても、どこかから沸いて出たように用意されていた食事。 それは――てっきり綾女が都合してくれたものだとばかり思っていた。 「……奥様……東京に、大きな空襲があったとき……」 きれぎれに、ようやく高岡が口を開いた。 「お屋敷が焼けた時もそうでした。志野さんは……母の止めるのも聞かず、燃え盛る帝都に引き返していったそうでございます。お屋敷の方に走り、奥様が残されているのを聞き出し、炎の中、必死で……助けを呼びに走ったとか」 「たくの兄が、志野さんについて行きました……止める間もなかったということでした……どうお詫びしていいのか、あれほどお綺麗な方だったのに……」 そのまま、母親は手で顔を覆って泣き咽んだ。 御園は、唇を手で覆ったまま、信じられない言葉の数々を夢のような気持ちで聞いていた。 |
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