聞こえる、恋の唄
■■
第13章
「再会の時」
………<5>………

高岡さま。


あなたのご親切に、一度だけおすがりしてもよろしいでしょうか。

どうか私を、あなたさまのかりそめの婚約者にしていただきたいのです。

理由はくわしくは申せません、ただ、私がお屋敷にいることで、奥さまやご家族の人たちに大きなご迷惑がかかるということと、私のために、大切な人たちが笑いものになるのだということをご理解ください。

奥様に受けた恩を仇で返さないためには、私が結婚という形であのお屋敷を辞去するほかないのです。

ご迷惑は重々承知しております。

前も申しましたとおり、私はあなたさまの妻になる資格のない、薄汚れた女でございます。

それでもあなたさましか頼る者のない私をどうか哀れと思い、ほんの一時、奥様をあざむくという、耐えがたい罪を引き受けてはくださいませんでしょうか。

このご恩は、一生かけてお返しさせていただきます。



兵馬さま

しの




御園は――吐胸をつかれるような思いだった。

これはどういうことだろう。

この手紙は、間違いない、志野に、雅流が求婚していることを伝えたその日に書かれたものだ。

「……奥様、私は嘘をつきました」

きれぎれの声が聞こえた。

「私は……志野さんの思いつめた気持ちが判るだけに、彼女の嘘に口裏を合わせることに決めたのです、――そう、母にも頼んだのです」

再び土下座したままの姿勢で、高岡は泣きむせんだ。

「志野は……では、どうしているのです……」

自分の声とは思えないうつろな声で、御園は呟いた。

どうして今まで、想像することさえしなかったのだろう。

志野とはそういう娘だったのに。
間違っても主人の意にそむくようなことをしない娘だったのに。

稲妻に打たれたように、刹那に御園は理解した。

志野は――察したのだ。

敏感に理解したのだ、主人の心の底にひそんでいたものを――御園が内心、この結婚を、ひどく愁いていたことを。

「……お屋敷を出て……志野さんは、うちを訪ねてきたそうです。僕はもういませんでしたが……」

「志野さんは、お詫びにいらしたのです」

言葉を継いだのは、高岡の母親だった。

「聞けば行く当てもないというので、しばらくお引止めすることにしたのです。ちょうど……人手がなくて、私も病に伏せておりまして……農作業も忙しい時期でしたから……志野さんは、それはよく手伝ってくださいました。私は何度も、この人が息子の嫁にきてくれればと思ったものです」

母も涙ぐんでいた。

「……たまに多くいただいた野菜や米を、私はお礼がわりに志野さんに分けてあげたのです。お金の代わりに、いえ、あの人はお金など決して受け取らない人でしたが……けれども」

母は言葉を途切れさせた。

土下座したままの、高岡の肩も震えている。

「あの人は、それを全部、櫻井のお屋敷に届けていたのでございます。肩の骨が突き出すほど痩せて、あの娘もひどく飢えていたのに……私も後から知って驚いたのですが、いくら止めてもやめようとは致しません。自分の食べるものを切り詰めては、それをお屋敷の人に、こっそり渡していたのでございます」

御園は手で口を覆っていた。

いくら食料が底をついても、どこかから沸いて出たように用意されていた食事。

それは――てっきり綾女が都合してくれたものだとばかり思っていた。

「……奥様……東京に、大きな空襲があったとき……」

きれぎれに、ようやく高岡が口を開いた。

「お屋敷が焼けた時もそうでした。志野さんは……母の止めるのも聞かず、燃え盛る帝都に引き返していったそうでございます。お屋敷の方に走り、奥様が残されているのを聞き出し、炎の中、必死で……助けを呼びに走ったとか」

「たくの兄が、志野さんについて行きました……止める間もなかったということでした……どうお詫びしていいのか、あれほどお綺麗な方だったのに……」

そのまま、母親は手で顔を覆って泣き咽んだ。

御園は、唇を手で覆ったまま、信じられない言葉の数々を夢のような気持ちで聞いていた。



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