聞こえる、恋の唄
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第12章
「雅流の光」
………<2>………

「……志野っ」

叫んだ御園は、無礼も忘れて立ち上がっていた。

志野は、黒川流に師事していたのだろうか。
ならば何故、お父様も志野も、私には何も言わずに――。

目の前の父のことも忘れ、座布団を蹴るようにして襖を開ける。

廊下に飛び出し、父の制止も聞かず、躊躇することなく、隣室に続く襖を開けた。

四畳ほどの狭い和室の中央に、目指す人は座っていた。

顔を上げ、戸惑ったように撥を置いたのは、しかし志野ではなかった。

御園自らが連れてきて、用が済むまで待たせていた雅流だったのである。

(――雅流……)

しばらくの間、御園は口が聞けなかった。

どうして雅流のことを忘れていたのだろうか。

久しぶりに父に会わせたくて、ここまで連れてきたのは御園自身だったのに。

それにしても、今の演奏は。

「申し訳ありません、懐かしかったものですから」

御園のことを家元の黒川だとでも思ったのか、雅流はあらぬ方に向かって手をついた。

「ま、雅流」

ようやく我に返った御園は、雅流の傍に膝をついてにじりよった。

「今の演奏は、お前のものなのですか、雅流」

母の剣幕に、雅流は戸惑って瞬きをする。

「……そうですが」

「それは――」

言いさして、御園は再び言葉を失った。

志野の――かつての志野の弾き方とよく似ている。
というより、雅流とは、こういう弾き方ができる人間だったのだろうか。

御園の目からみた雅流の三味線とは、確かに光るものがありはしたが、まだまだ荒削りで、未熟としか映らなかった。

当時は、本人の態度もどこかいい加減だったし、まず、ものにはならないと思っていたのだ。

「お前は……戦場でも、稽古をしていたのですか」

「いえ」

雅流はわずかに苦笑を浮かべた。

「ただ、頭の中で想像して、指だけはよく動かしていたと思います。自由に弾ける時は面倒で仕方なかったものが、不思議なものですね」

言葉を切ってうつむいた雅流は、手元の三味線を、所在なげに爪弾く。

「雅流、お前も御園と一緒に、しばらくここへ通いなさい」

頭上から、泰三の声がした。

御園は、はっとして顔をあげる。

「御園、実はお前にもそう薦めようと思っていたのだ。雅流は目が見えないという。しかし、音の世界に視力は必要ない。むしろ見えぬ方が、本質に迫れることもある」

「……お父様」

光明が――暗闇の中に、薄い光が差し込んできたような気がした。

御園は手をつき、がば、と頭を下げた。

「技術はひどいものだったが、昔から雅流の音には、何かあると思っていた。ただ、生来のものをここまで昇華させたのは、心の変化によるものだろうがね」

落ち着き払った父の声を耳にしながら、御園は、それが、志野と係わりがあることだけは確かだと思っていた。

あの女が奏でた音が、雅流の何かを決定的に変えてしまったとでもいうのだろうか――。

「僕に、できるでしょうか」

雅流の口調は少しも変らない。

それでも御園は、天啓を受けた人のように理解した。

この子には三味線がある、視界は閉ざされても、まだ音の世界が残されている。

そして私の残された生は、雅流を確かな道に導くためにあるのだと。――


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