聞こえる、恋の唄
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第12章
「雅流の光」
………<1>………

「まぁ、少しの間、通ってきて精進しなさい」

御園の演奏を聞き終わった黒川泰三は、はじめて顔を上げ、表情を緩めた。

「ありがとうございます、家元」

御園はほっとして三味線を置いた。

家元――黒川流長唄三味線の宗家といっても、御園の実の父である。

黒川家は、由緒ある士族の家柄で、二代前から三味線の一派を興した新派であった。

元華族だった母は戦前に病で亡くなっており、御園にとって血縁とは、子どもたちをのぞけば、もう泰三しか残っていない。

弟子が用意してくれた薄い茶をすすりながら、戦後、なおかくしゃくとしている老人は、ふっと軽い溜息をついた。

「お前が、うちの流派の看板を出すのはかまわない。ただ、この時勢だ。うちにしても、弟子の大半がやめて、食うや食わずの有様だ。生半可なやり方では、三味線で生計を立てるのは難しいぞ」

「……判っています。でも、やってみたいんですわ」

「そうかね」

「幸い、鞠子が援助してくれると言っておりますし」

空になった茶椀を置いて、御園はすっかり寂しくなった邸内を見回した。

かつての黒川家は、元士族らしい伝統的な武家屋敷を有しており、簡素だが美しい、広々とした庭園を持っていた。

その屋敷は空襲で跡形もなく焼け落ち、今は、跡地に建てられた手狭な家屋が、老いた父の住処であり稽古場でもある。

蔵の中に山ほどあった掛け軸や骨董品などは、すべて二束三文で売り払ったらしい。

父もまた、ぎりぎりのところで戦時下の東京を生き延びた、逞しい人間の一人なのだ。

「まぁ、頑張りなさい。今は人々に、音楽を楽しむだけの余裕がなく、また、音楽といえば、アメリカの洋楽が素晴らしいという風潮が蔓延し、かつての古典芸能が忘れ去られようとしている時代だ」

茶碗を置き、泰三は少し厳しい顔になった。

御園は頷く。
確かに、誰もが自分が生きるのに精一杯の時代だった。

天皇がただの人間になったり、婦人議員が誕生したり、メーデーが各地で開催されたり……時代は目まぐるしく、確実に動いているものの、最下層の人々の暮らしは一向によくならない。

厳しい眼のままで、黒川は続けた。

「だからこそ、我々は日本の伝統を守り、後世に継承していかねばならんのだ。いずれ日本文化の素晴らしさを、人々が再確認する日がくるまでは」

やはり、お父さまはお強い。

御園は変らぬ父の姿に安堵した。

来年は、再起を賭けた定期演奏会を、都内の公会堂を借り切って催す予定であるという。

話を聞いた時には、無謀だと驚きはしたものの、父ならば大丈夫だろうと、この瞬間思い直している。

ふいに、襖を隔てた隣室から、弦を弾く音がした。

最初はひどくぎこちなかった。
それが次第に滑らかに、高らかになり、確かな感情を紡いでいく。

――時雨西行。

御園は茶碗を持つ指を強張らせたまま、身体を凍りつかせていた。

独特の弾き方に、確かな聞き覚えがあった。

心に直に訴えてくるような激しい撥さばきが、変調後、一転して優雅で優しい音色に変わる。緩急の取り方、間の開け方、これは。


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