聞こえる、恋の唄
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第10章
「昭和21年・夏」
………<2>………

復員服に、深く被ったつば付きの帽子、そして黒い色眼鏡。

杖をつき、どこか頼りない足取りで汽車から降りてくる男は、一目で視力を失っていることが判る風体をしていた。

「……雅流……っ」

人目もはばからず大声を出し、押し寄せる人を掻き分け、御園は一目散に四年ぶりに会う息子の元へ駆け寄った。

「母さん……?」

すぐに、懐かしい声が返ってくる。

日にやけて、精悍さのました肌。
いっそう逞しくなった肩と胸。

御園はものも言わずに、息子の身体を抱き締め、腕に触れ、肩に触れ、確かな生を確認して――顔を覆う眼鏡を外した。

まだ信じられなかった。まだ、ここにいる男が、確かに息子だという実感がわかなかった。

眼鏡を外された途端、雅流は、まぶしげに眼をすがめて瞬きをする。

御園は胸を打たれた人のように動きをとめ、初めて見るような息子の顔に――別人のようになった表情に、しばし、言葉を失っていた。

黒目がちの綺麗な双眸。
瞳から表情が拭い去られているせいか、そこに、かつてのような、ぎらぎらとした野性的な輝きはない。
ただ、水を湛えたような、静かな光があるだけだ。

それは、かつて御園が一度だけ犯した過ち――いや、生涯でたった一人愛した人に酷似した表情でもあった。

その人も、東京を襲った大空襲で今はもうこの世にいない。

「雅流……」

「母さんの声を、久しぶりに聞きました」

見えないはずの母を見下ろし、雅流は照れたような苦笑を浮かべる。

ようやく御園は実感した。
この子は生きて、そして確かに戻ってきてくれたのだと。

せき止めていた涙が溢れ出し、御園は口を覆って込み上げる嗚咽に耐えた。

「お前……本当に、よかった……よかった……」

死んだと思った方がよい――そう知らせを受けた時でさえ泣かなかった御園だが、もう涙を堪える必要は何もなかった。
ただ、愛しい命を抱き締めて、気が済むまで号泣した。

「もう泣かないでください。母さんも、他のみんなも変わりはありませんか」

いつまでも続く母の激情に辟易したのか、雅流が困惑気味に背を撫でてくれる。

「ええ、ええ、変りありませんよ」

涙を拭いながら、御園は、初めて息子の視力がないことに感謝した。

生糸のように真っ白になった髪は、櫛で削るごとに日々薄くなっていく。
骨と皮ばかりに痩せた身体は、戦後、食料事情が多少ましになってからも、一向に元には戻らない。


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