聞こえる、恋の唄
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第一章
「櫻井伯爵家」
………<5>………

「志野さんのお母様は、それはもう、見事な三味線の弾き手でおられたのですもの。私、初めて知りましたわ。殿方の前で三味線を弾いて、そしてお酒の相手をするだけで、随分なお金になるんですって」

聞き流し、うつむいて三味線を本調子に合わせ始めた志野は、それでも一瞬、手が強張りそうになっていた。

母が本所で芸者をしていた――その過去は、鞠子に今さら言われるまでもなく、もっと屈辱的な形で、何度も志野を苦しめている。

「お喋りはこれくらいになさい、鞠子」

重々しい声で、志野の動揺を救ってくれたのは、家元の黒川泰三だった。

灰色の頭髪と、薄い顎鬚を持つ痩せぎすの老人は、七十近くなった今でもかくしゃくとし、長唄三味線の最大流派、黒川流のトップの椅子に何年も座り続けている。

「志野、弾いてみなさい。お前たちは皆、真剣に聞くように、――特に薫」

老人は、鋭い眼差しで、斜め前に座る孫を睨んだ。

「今日のお前の演奏は、全く心が入っていなかった。稽古をさぼっているのだろう。調子が途中から何度も狂って、聞き苦しいことこの上ない」

いきなり叱責された薫は、目を伏せたままで居住まいを正す。

本格的に三味線で身を立てたいと公言している薫は、黒川流の後継者の座を狙っていることを隠そうとはしていない。
ゆえに薫は、黒川流家元である祖父には、実のところ犬よりも従順なのだ。

けれど、祖父の目の届かないところでの薫は、暗い、陰火の灯ったような眼差しを志野に向ける。

今も志野には、薫がこう言っているように思えた。

いい気になっているのも、今のうちだぞ――。

「はい、おじいさま」と素直に頷きながら、薫はわずかに視線をあげて志野を見る。

湖面のように凪いだ目は、笑っているようにも、怒っているようにも見えた。

(今夜もだろうか……)

志野は、憂鬱にけぶりそうな眼差しを伏せ、一息ついてから、ようやく撥を動かしはじめた。



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