■■■■■■■■ 聞こえる、恋の唄 ■■■■■■■■ 第一章 「櫻井伯爵家」 |
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「……っ」 鞭がしなるような音がして、指先に鋭い痛みが走った。 衝撃で右手が痺れる。 井関志野(しの)は、咄嗟に撥(ばち)を落とすと、指を唇に当てていた。 舌先に、錆の味が広がっていく。 冬の初め、稽古の直前まで水仕事をしていた指は、表皮がひびわれ、節には血が滲んでいた。 痛む指で、無理な弾き方をしたのがいけなかったのかもしれない。 切れた弦は、あかぎれだらけの指に一筋の朱を刻み、今は力なく垂れさがっている。 「どうしました、志野」 厳しい声が上座からかかる。 「申し訳ございません」 志野は即座に三味線を置くと、畳に手をついて低頭した。 屋敷の奥にある二十畳ほどの座敷には、今、志野を含めて七人の家人が集まっている。 末席に座る志野の身分が一番低く、着物も三味線もみずぼらしい。 土下座したまま動かない志野の姿がおかしいのか、静かだった場にひそやかな失笑が広がった。 「顔をおあげ、早く糸を張りなさい」 再度掛けられた厳しい声は、この家の女主人、櫻井御園(みその)のものである。 普段は温厚で優しく、伯爵夫人とは思えないほどきさくな女も、三味線の稽古の時だけは、別人のように厳しくなる。 「申し訳ございません」 志野は同じ言葉を繰り返し、すぐに切れた糸を張り直しはじめた。 失態はそのまま、この場に同席するよう計らってくれた御園の顔に泥を塗ることになる。 侮蔑の目は、確かな演奏で跳ね返すしかない事を、志野はよく知っている。 (奥様の体面だけは、汚してはならない。) うつむいたまま、志野は自分に言い聞かせた。 自分の命など棄ててもいいと思うほど、志野は伯爵家の女主人に心酔している。 孤児だった志野を引き取り、使用人として傍に置きながら、我が子同然に読み書きなどを躾けてくれた人である。 今の志野にとっては何よりも大切な三味線を――最初に教えてくれたのも御園である。 「ねぇ、なんだか糠(ぬか)臭くない?」 不意に、小馬鹿にしたような声がした。 確認するまでもない、先年、鴨居(かもい)子爵家に嫁いだばかりの櫻井家の長女、鞠子(まりこ)の声である。 |
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