第一章 流離
1
透き通るような浅いまどろみの中、あさとは、瞬いて目を覚ました。
部屋の中は薄闇に包まれている。天蓋の帳越しに、夜明けが青白く滲んでいる。
少しだけ顔を傾けて、隣にいるはずのアシュラルを探した。
探すまでもない、目の前にその人の寝顔があった。額に髪が掛かっているせいか、なんだか普段より幼く見える。
滑らかな首筋に、きれいな鎖骨が浮き出ている。
アシュラル……。
彼の眠りは意外に深い。戦場で緊張が続いているせいなのか、それとも安心しきっているせいなのか、まるで 。
死んだように眠っている。
あさとは彼の頬に指で触れ、その呼吸を肌で感じた。
少しだけほっとした。もちろん、死んでいるはずはない。それは判っているのだけど……。
青百合宮殿。
タイランド行きを翌朝に控えているアシュラルには、朝から沢山の政務が待っている。昨夜、ジュールがくどいほど今日の予定をアシュラルに教え込んでいたから、きっと重要な約束事が控えているのだろう。
アシュラルを起こさないよう、そっと半身を動かそうとして、……ようやく、あさとは気がついた。
やだ、まただ。
ふっと頬が赤らんでいる。
眠っているアシュラルの手が、しっかりとあさとの腕を掴んでいる。
手を解こうとして 止めて、もう一度アシュラルの寝顔を見つめる。
「へんな癖……子供みたい」
アシュラルと朝を迎えるのは、これで二度目になる。最初の朝も、目覚めた時、同じように彼の腕が、あさとを掴んで離さなかったのが可笑しかった。
想像してもいなかった。あれほど冷酷で、戦場では鬼神とまで恐れられているアシュラルに、こんな子供っぽい一面があったなんて。
結婚したのに……まだ、……知らないことが一杯あるんだな。
不思議な気がして、まじまじと、夫となった人の寝顔を見る。
長い睫、綺麗な唇……。
ドキドキした。この唇が、昨夜どんな声を出し、何をしたのかを思い出したから。
もっと、恋に慣れた人なのだと思っていた。だから、あさとも、彼に合わせてもっと大人にならなければいけないと思っていた。
なのに、一度心を開いてからのアシュラルは、独占欲をむきだしにした子供のようだ。すぐに触れたがるし、人前でもキスをしたがる。こんな風に、寝ながらでも手を離そうとしない。そう、まるで母親と眠る子供のように。
可愛いな。
男の人を、そんな風に感じたのは初めてだ。
昨夜、感情を高めながらあさとを見下ろした情熱的な眼差し。唇から漏れる吐息と、滑らかな肌。指を絡め、何度も耳元で囁いた声。
あまり考えたくないけれど、アシュラルはその面では、多分相当に経験を積んでいる。
ああいった場面では、眉ひとすじ変えないものだと思いこんでいただけに、彼が見せてくれた表情や仕草のひとつひとつが、愛しくてたまらない。
アシュラル……大好き……。
が、微笑してアシュラルの寝顔を見つめていたあさとは、ふと、自身の眉が曇るのを感じていた。
幸福の裡に、……自分の中に、小さく潜む針のような影がある。
ううん。
あさとは慌てて、心によぎる不安な気持ちを振り払った。……大丈夫、きっと彼は気がついていない。
「……ん」
細い呟きと共に、アシュラルの睫が、微かに揺れた。
何度が瞬きを繰り返し、彼は、夢から覚めた人のようにぼんやりと目を開ける。そして、見下ろすあさとをゆっくりと見つめた。
え……?
その顔に、幻のように誰かの表情が重なっていく。
何で。
どうして彼の顔に、その表情を感じたのか あさとは混乱したまま、咄嗟に身を引いていた。
「クシュリナ……」
目覚めた男は、掠れた声で呟いた。
薄く開いたその眼に、たちまち現実の彼が戻ってくる。
あさとはようやくほっとした。
「……起きていたのか」
「うん、起こしちゃったね、ごめん」
「いい」
ゆっくりと伸びてくる腕。頬に触れる暖かい指先。そのまま指は髪に絡み、あさとは彼の胸に抱き寄せられていた。
「起きていよう、……眠るのが惜しい」
心地よい肌の香りと、愛しい声。求められるままに唇を軽く合わせ、幸福で胸が詰まりそうなった。
まだ、二人でこうしていることが信じられない。
夢みたいに、幸せ……。
「……クシュリナ」
アシュラルの腕が、背中に回る。唇を開いたキスが深くなり、肩にかかった薄い夜着がはがされる。
「ちょ、アシュラル」
半ば、甘い陶酔に引きずられていたあさとは、朝日に気づき、羞恥のために我にかえった。
「も、もうすぐ、カヤノが起こしにくるし、ジュールが、ほら、迎えにくるから」
「それがどうした」
「どうしたもこうしたも……、やだっ、やだってば」
「昨日は暗かった」
「あ、当たり前じゃない、夜なんだから」
「明るいところで、お前が見たい」
「…………見たいって」
「逆らうな」
や、やだ、絶対に、やだ。
アシュラルに組み伏せられながら、あさとは懸命に乱れた衣服を胸元であわせる。そんなあさとを、アシュラルはむしろ面白そうに見下ろしている。その余裕に少しばかりむっとして、厳しい目で見上げていた。
「離婚する」
「は?」
「明るいところで、あんな真似されるくらいなら……もう別れる」
「……お前……本当に、わけのわからない女だな」
相当不機嫌そうな顔になったものの、アシュラルは大人しく腕を放すと、嘆息して半身を起こした。
「結婚したら、相手に全てを見せるものだ」
「誰がそんなこと決めたのよ」
「真理だ、そんなの当たり前だ」
背を向けた男の声がむっとしている。
なんつー、強引な理屈なのよ。
あさとも憮然としつつ、傍らに置いていた上衣に手を伸ばした。
「だって、自信ないんだもん」
「なんの自信だ」
「貧相な身体だって、前、アシュラルが言ったじゃない」
「俺が? まさか」
「まさかって、ちょっと、どの口が言ったと思ってるのよ」
「どの口か知らんが、少なくとも俺じゃない」
「…………」
本当に、子供みたいに強情っぱりなんだから。……。肩をすくめたあさとは漏れそうになる笑いを堪えて、手にとった上衣を肩に羽織る。
その時、背を向けているとばかり思っていたアシュラルの指が、唐突に背中に触れる。
驚く間もなく、それは緩やかに滑って胸元に抜けた。
「もう、だから、やだって言ったじゃない」
「この傷……」
背中から抱きすくめられ、肩ごしにアシュラルの強い眼差しを感じる。
はだけた胸に刻まれた裂傷。
「残るのか」
あ……。
不意に切ないような苦しさを感じ、あさとは身体の動きを止めていた。なんだか彼に、ひどく申し訳のないことをしたような気持になる。
「ごめんね……」
「なんで、お前が謝る」
「……だって」
昨夜初めて包帯を取って 闇の中で、彼は何度もその傷痕にくちづけてくれた。けれど、明るい陽の下で見るのは初めてのはずだ。
「……俺のせいだ」
指先で傷をなぞり、アシュラルはそっとあさとの肩に唇を寄せた。
「こんなに綺麗な身体に……ひどいことをさせてしまった」
「……自分でしちゃったことだから」
「俺のためにしたことだ」
うん……。
強く抱きしめられ、何度も髪に唇をあてられる。
「俺がつけた傷だ……お前が、俺のものだという証だ」
うん……そうだね。
だからかな、私は全然、悔しくないんだ。ただ、こんな傷を残して、アシュラルに申し訳ないと思うばかりで……。
「ちょっと待て」
「ん?」
不意に腕を解いたアシュラルが、あさとの肩を抱いて、自分のほうに向きなおらせた。
「その傷の手当ては、今は誰がしてる」
「…………」
「まさかと思うが、ロイドに見せてるんじゃないだろうな」
「いや…………だって、じゃあ、他の誰に」
「俺はカヤノに頼んだ。カヤノは何をやっていたんだ!」
「ちょ、ちょ、アシュラル、落ち着いて!」
あさとは慌てて、アシュラルの口を手で塞いだ。
「だって、ロイドは医術師だよ。カヤノが、その方がいいって言うし、私だって」
「あんなろくでもない男、信じられるか」
声がひどく怒っている。冗談なのか本気なのか、区別がつかない。何か言おうとした唇を塞がれ、腕を掴まれたあさとは寝台の上に倒されていた。
アシュラル……。
両腕を頭の上で拘束され、理性が溶けそうなほど長いキスが続く。
ようやく離れた唇が、首筋に強くあてられた。初めて感じる強い痛みに、あさとは眉をひそめている。
「アシュラル……」
「むかつくな」
いったい、どこまで本気なんだろう。
少しだけ怖くなって、彼の腕から逃げようと身をよじる。
「いや、アシュラル」
「もう、俺以外の誰にも触らせるな」
……。
あさとは眼を見開いた。
頭から冷水をかけられたような気持ちだった。
( 俺以外の誰にも、触らせるな……)
同じ声、同じ口調、同じ顔で、私にそう言ったあの人。
琥珀。
まるで稲妻が閃くように、その声が、その表情が、蘇る。
「いやっ……」
反射的に、アシュラルの腕を渾身の力で振り解き、 振り解いてから、ようやく我に返っていた。
アシュラルは、少し驚いた顔をしている。当たり前だ、アシュラルもひどかったけれど、自分の反応は、それ以上に唐突で過剰だった。
「ご、ごめんなさい、私……」
「 すまない、俺が怖がらせたのかもしれない」
怒られるかとも思ったが、アシュラルは不思議に静かな表情になって、わずかに笑んだだけだった。
私、何を考えてたんだろう、……こんな時に、琥珀のことを思い出すなんて。
最低だ、謝らないといけないのは、私のほうなのに。
顔を背けたまま、動けないでいると、不意に、アシュラルが立ち上がる気配がした。
「……起きよう、いつまでもここいると、お前の言うことを守れそうにない」
形良い背中が向けられる。その背に滲む、斜めに裂けた傷痕。
彼はローブを羽織ると、天蓋を払って外に出た。
見上げるほどに高い背。細く締まった腰の位置が高い。
怒ったの……?
あさとは不安にかられ、帳の隙間から見える彼の背中をただ見つめた。
さっきまで近くにあったものが、ふいに離れて行く不安。
「今朝は、蒙真から来た亡命者と謁見することになっている」
が、背を向けたままのアシュラルの声は優しかった。
「お前も、ナイリュの情勢が気になるだろう。……今日は、時間が許す限り俺の傍にいろ」
「……うん」
ようやく笑顔になって、あさとも寝台を飛び降りていた。
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