美しい旋律が、先月竣工したばかりだという、瀟洒なホール全体に響いている。
「ほんっと、綺麗だよねー、門倉さんって」
 客席。あさとの背後から、そんな囁き声が聞えて来た。
 褒め言葉なのに、妙な棘がある。
 ピアノの音色に聞き入っていたあさとは、ふと聞き咎めて視線だけを背後に向けた。
「芸能事務所からも、スカウトきてるって話だよ。こないだ先生が噂してた」
「マジ?」
「でも、無理じゃん、国会議員のお嬢様じゃね。それにピアノの腕もいまいちだし」
 くすっと笑う嘲笑は、その少し前に、壇上の雅が音を外したことを指している。
 彼女たちが、同じピアノ教室の受講生なのだと、あさとは漠然と理解した。
「いいよね。門倉さんの場合、賞が取れるかどうかは下手上手じゃないもん」
「あのくらいで入賞なんてありえないって。本人、一番よくわかってんじゃない?」
 くすくすという笑い声。
 あからさまな悪意に、思わず眉を寄せた時、演奏が終わった。
 白いドレス姿の雅が、立ちあがって優雅に一礼する。
 満場   とまではいかなくとも、ホール中に拍手が鳴り響いた。
「お綺麗なお嬢様でしたねぇ」
「ほら、あの子が例の門倉議員の」
「通りで品があると思いましたよ」
 そんな声が、ちらほらと聞こえる。
「でも、緊張されていたのかしら。随分ミスが目立ちましたねぇ」
 素人のあさとから見ても、今日の雅の演奏は最悪だった。
 楽器メーカーYAMASEが主催した、関東地区のピアノコンクール。
 先月あった予選を勝ち抜いての決勝だったが、体調が悪かったのか、本当に緊張していたのか、雅の顔色はどこか冴えず、演奏どころか笑顔も精彩を欠いていた。
 雅が最後の奏者で、休憩を挟んで十五分後に、賞の発表式が始まった。
「優勝、東京地区代表、門倉雅さん!」
 背後で雅をひやかしていた連中は、既に席にはいなかった。
「まぁ……YAMASEの関連企業は、与党に多額の献金をしてるとの噂もあるしな」
「でも、実力でここまで来た人が可哀想だよ」
 壇上で一礼をしてピアノに向かった雅は、花がほころぶ様な美しい笑みを浮かべていた。
 それまで、どこかまばらだった拍手も、雅が笑顔を見せた瞬間に、大きくホールに鳴り響く。
 雅は嬉しそうだった。
 けれど、心の中で、冷えた怒りを懸命に押し殺しているのが、   あさとだけには、察せられた。
 
 
 
「あさと」
 控え室の雅は、思いのほか、上機嫌だった。
「個室なんだ」
「すごいでしょ、特別室よ」
 狭いながらも、花束だらけの個室に佇む雅は、まだ舞台用の衣装を身につけたままだ。学校では決して見られないメイクまで施した姿は、本当に芸能人のように美しく見えた。
「それより、来てくれてありがとう。舞台から見てすぐに判ったわ」
 はしゃいだ態で、雅は駆け寄ってあさとの両手を握りしめた。
「今日は剣道の試合でしょ、絶対無理だと思ってたの、本当に嬉しい」
 無邪気に手放しで喜ばれ、あさともくすぐったいような嬉しさがこみあげる。
 こういう時、自分はむしろ、雅に恋しているのではないか、と思えてしまう。
 喜ばれると嬉しくて、笑顔がもっとみたくなって、雅の願いなら何でも叶えたい気持ちになる。
「優勝、あめでとう」
「ありがとう」
 壇上で見せた陰欝さなど微塵も感じられない笑顔に、あさとは少しほっとしている。
 こういう時の雅の怒りは   大抵は、同居人の琥珀に向けられるからだ。
 その時、背後の扉が開いて、雅の母が顔を出した。
「雅ちゃん、タクシーを呼んだから、早く支度して帰りましょう」
「お父様、喜んでくれるかな」
「きっとお喜びよ」
 にこやかに娘を見てから、門倉祥子は、今、気づいたとでもいう風にあさとを振り返った。
「あさとちゃん、来てくれてありがとう」
「あ、いえ……」
「ホテルで食事して帰ろうと思ってるんだけど、あさとちゃんもどう?」
 あさとは慌てて断った。
 雅には悪いが、あさとは昔からこの人が苦手だった。何がどうというわけではないが、どことなく、何を話しても、会話がかみ合わない違和感がある。
「まぁ、断ることはないじゃない。ね、お願い、雅ちゃんもきっと喜ぶわ。志津子さんには私が断りを入れておくから、私たちと一緒に行きましょう」
 あさとが何を言っても、この人の耳には届かないようだった。
 結局は「はい」と頷き、多少憂鬱な気分になりながら、着替え始めた雅の背を見る。
「でも、嬉しいな、本当に」
 雅は不思議なくらいはしゃいでいた。
「今日は大切な試合だったんでしょう? なのに、わざわざ私のために来てくれるなんて、本当に嬉しい」
「女子は、午前で終わったんだよ」
 雅の背中   白くて、腰などは見惚れるほどに細くて、見事な均衡が取れている。
 実際、中学一年生とは思えないほど、雅は大人びて美しかった。
「で、どうだった? 県大会の決勝戦だったんでしょ?」
「個人の部で、準優勝だったよ」
「すごーい」
 下着姿のままの雅が振り返る。形のいいバストの下に、妙になまめかしい黒子が三つ並んでいる。他意はないのだろうが、あさとにはまるで、雅が自ら見事なプロポーションをひけらかしているように見えた。
 あさとには、まずできない。いくら親友でも、真っ昼間に下着だけの姿で、堂々と会話を続けるなんて。
「私より、琥珀のほうがすごいと思うよ」
 雪よりも白い肌から目を逸らしながら、あさとは苦笑した。
 時計を見る。琥珀は   今頃、決勝の真っ最中だろう。
「中学男子の部で、もうダントツに強いんだから。初戦から全部一本勝ち、すっごくかっこよかった。雅も見たかったでしょ」
「へぇ……」
「よそのチームの監督さんなんか、琥珀は百年に一度出るか出ないかの神童だって、高校生まで呼んで見学させてる始末なの。なんか、鼻が高かったな、私」
「…………」
 試合直後の興奮が、知らずあさとを饒舌にさせていた。
 自分と琥珀、そして雅の微妙な関係に思い到り、はっと口を噤んだ時、雅は顔に満面の笑顔を浮かべていた。
「じゃ、今夜はお祝いしなきゃね」
「う、うん」
 顔は笑っている。琥珀の話になると、雅の反応はいつもそうだ。とても楽しそうに笑っているのに   眼は、まるで笑っていない。
「そうなんだ、……琥珀、そんなにすごいんだ。それは、さぞかしかっこよかったんだろうね」
 
 
 
 ホールを出て、雅に続いてタクシーに乗り込む寸前だった。
 正面扉から出てきたその人の姿を見て、それが錯覚ではないと判った時、あさとは手にした鞄を落としそうになっていた。
「琥珀?!」
 顔をあげた琥珀が、わずかに訝しむような表情になる。
 学生服姿で、両手に大きな荷物を抱えていた。紙袋からは、溢れんばかりの花束がのぞいている。
「琥珀」
 あさとを押しやるように身を乗り出した雅が、冷めた声を上げた。
「家に帰って、それからこっちに合流して、今夜はPホテルで食事するから」
 琥珀は何も答えず、表情さえ変えず、後続のタクシーに乗り込んだ。
 どういうこと?
 あさとは混乱しながら、急かされるままにタクシーに乗車した。
 だって、この時間、琥珀はまだ試合があって。団体戦にも出るはずだから、こんな時間にこんな場所にいていいはずがないのに。  

「琥珀がそんなに強いなんて、知らなかったな」
 雅は顎に両手を当て、楽しそうに呟いた。
「すぐに負けちゃうと思ってたんだ。決勝まで残るくらいだったら、呼び戻したりしなかったのに、水臭いよね、琥珀も」
    雅……。
 あさとはようやく、雅の異常なまでの上機嫌の理由を理解した。
 そして、琥珀が受けたあまりに残酷な仕打ちを理解した。
 雅はやはり怒っていた。しかも、尋常でないほどに。その怒りは、いつものように、琥珀一人に向けられていたのだ。  

「雅……それ、ひどすぎるよ」
 先にタクシーを降りた祥子が、着信でもあったのか、携帯電話を耳に当てたのを見計らって、あさとは怒りを押し殺して囁いた。
「琥珀が、今日のために、どれだけ努力したか知ってるの? ひどいよ、雅、いつも思ってたけど、琥珀は、雅の所有物じゃないんだよ」
「所有物?」
 雅は、心底意外そうな目になった。
「なにそれ、私、そんな風に思ったこと一度もないよ。琥珀が私のもの? あの琥珀が?」
 人懐っこい目、可憐な笑顔。どうしてだろう、こんなに腹が立つのに、その笑顔を見ると、あさとは何も言えなくなる。
「私はただ、コンクールを観にきてってお願いしただけ。行くって言ったのは琥珀だよ、全然強制なんかしてないのに」
「…………」
「だったら琥珀に聞いてみたら?」
 結局、雅を許してしまう。
 親友だから。
 私は雅が大好きだから。
    でも
 でも、時々……。
「琥珀」
 遅れて食事の席に合流した琥珀に、雅はびっくりするほど甘えた声を出した。
 彼女の琥珀への態度が不可解だと思えるのは、こんな時だ。恋をしているのか、憎んでいるのか、あさとには本当に判らなくなる。
「今日、私、コンクールで優勝したのよ、ねぇ、琥珀も喜んでくれるでしょう」
「……ああ」
 言葉少なに琥珀は頷く。
「約束よ、今度私とデートしてね。私の行きたい所、どこでも連れてってくれる約束だったよね」
 琥珀は答える代りに、困惑気味の微笑を浮かべただけだった。
 あさとは、無言でフォークを動かし続けていた。
 雅のはしゃいだ笑い声が続いている。
「あ、そうだ、あさと。一応聞いておくけど、私と琥珀が一緒にデートしてもいいよね?」
「……どうして、私に訊くの」
「だって、さっき、まるであさとが、琥珀の所有者みたいなこと言ってたから」
「…………」
 何、この女。
 手が、冷たいフォークを握りしめた。
 こんな女、いなくなっちゃえばいいのに。  

 自分の中に芽生えた感情に、あさとは、微かな寒気を感じた。

 
 
 
 
 
 
  
   



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