エピローグ








「お召し物を、駄目にしてしまいましたね」
 雅流の着替えを手伝いながら、志野は少し口惜しそうに呟いた。
 日差しはすでに、初夏の色味を帯びていた。
 庭には鮮やかな緑が映え、家の内にも外にも、優しい光が溢れている。
「もう駄目か」
「ええ、もう駄目です」
 もったいないです、いい仕立てでしたのに。
 膝をついて片付けを続ける志野に、頭上から少し呆れた声がした。
「お前は案外現実家なんだな、女というものは皆そうなのか」
「そんな」
 少し赤くなって、志野は立ったままの男を恨めしく見上げる。
「なんだか、俺が莫迦みたいだ。一人で舞い上がっているようじゃないか」
「……まだ、先の話でございますから」
 これから出稽古に向かう夫の姿を、志野は不思議な幸福に包まれたまま、しばし見つめた。
 立ち姿の綺麗な、いかにも落ち着いた美しい振る舞いをする人が、うっかり着物を破ってしまうほど、慌てて帰って来てくれた。それが、嬉しくもあり、おかしくもある。
「今夜は、鞠子様がおいでくださるそうです」
「そうか、母さんが話したんだな」
「ええ、先ほど鞠子様のところに行かれましたから、ご一緒にお戻りになると思います」
 苦笑した雅流は、「いい加減義姉さんと呼んでやったらどうだ」と言ったが、志野は曖昧な笑顔でそれに応えた。
「せっかくですので、薫様もお呼びしようかと思っているのですが」
「そうだな」
 微笑して、雅流はそっと膝を折った。
「おいで」
「あの、こちらを片付けませんと」
「いいから、おいで」
 大きな腕で抱き締められる。暖かな温みと独特の香り。志野は広い胸にもたれて目を閉じた。
 あまりにも幸せで穏やかな生活。このような日々が、これからずっと続くのだということが――、今でも志野には、自分にはもったいない、分不相応な気がしてしまう。
 けれど、同時に知ってもいる。二人は今、人生という苦難の旅の、ほんの入口に立ったばかりだ。
 時代は、まだまだよくはならない。誰もが見えない夜明けを目指し、必死に生きている時代。
「皆が集まるなら、なにかと準備が大変だろう」
 髪を撫でながら、雅流が優しく囁いた。
「午後まで、何もしなくていい。このまま……、時間まで俺と一緒にこうしていよう」
「まぁ、そういうわけには参りません」
 即座に志野は顔を上げた。
「これから出稽古なのに、お腹の虫にでも泣かれたら私の恥です。お出かけの前に、何か少しでも口にされませんと」
「それを現実家だというんだ」
 雅流は、少しむっとした表情になる。
「俺が今、どういう気持ちか判るのか。こんな日に、昼食などどうでもいいじゃないか」
「どうでもよくありませんわ」
「いや、どうでもいいさ」
「そんな、子どものようなことを……」
 あまりにも雅流の表情が頑ななので、志野は思わず微笑していた。
 愛しいと、志野は思った。私は……この人が、愛おしい。
 ようやく照れたように、雅流は志野を解放して立ち上がる。
「まぁ、確かに腹がすいたな」
「すぐに支度をします、待っていてください」
 志野は立ち上がり、廊下に出た。開け放たれた縁側から、魚屋の掛け声が聞こえてくる。
 やがてそれに、静かな三味線の音色が重なった。
 ――まぁ、どちらが、現実家なのかしら。
 苦笑した志野は目を閉じ、そっと腹部に手を当てる。やがて父親になる人の奏でる調べに耳を澄ませる。
 暗い時代は、まだ本当の意味では終わってはいない。けれど、未来に何が起ころうと、恐れる必要は何もない。
 この先の人生が決して一人ではないことを、志野はもう知っていた。                     









                                   (終)




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