口頭内示が終わって1時間――総務局全体がうわついて見えたのはほんの30分ほどで、6時を過ぎた頃にはすっかり平常モードに戻っていた。
 大地は環境局に異動になり、その後任として東区役所に勤務する25歳の女性職員が来ることになった。まだ電話連絡する許可は出ていないので、それがどんな人物かは、名前と年で想像するしかない。
 可南子の異動先は、その東区役所の生活援護課――つまり、ケースワーカーである。
 気丈にふるまう可南子が、内心激しいショックを受けているのは明らかで、成美はどう声をかけていいかさえ判らなかった。
 倉田真帆の異動先は、議会事務局秘書課――つまり、議員秘書である。
 次の異動で役所人生の全てが決まるわけではないだろうに、可南子と真帆が今後――少なくともこれから3年の間は、二度と顔をあわせないだろうということは容易に予想がついた。
 今回異動のなかった成美1人が、その争いから幸運にも外されたことになる。
「日高さん、電話」
 ぼんやりしていると自席近くの電話がなり、とってくれた篠田が差し出してくれた。
「あ、日高さん。有木です」
 弾んだ声に、成美はあっと小さな声をあげていた。電話の相手は、住宅政策課の有木である。
 有木と成美はかつて一緒に仕事をした仲で、有木は当初、新人の成美をまるで信用していなかった。
 成美にとっても、辛辣な有木はひどく苦手な相手だったが、やがて真摯に仕事をすることで信頼を得た。
 それからは、飲みに誘われるようになり、その本心も吐露された。有木は元々成美と同じ法規係に所属していたが、仕事の重圧に耐えかねて一年でリタイアしていたのだ。
「有木さん、雪村さんの後任なんですね。これからよろしくお願いします」
「日高さんの異動がないと聞いてほっとしました。こちらこそよろしくお願いします」
 有木の声が今までになく明るいのが嬉しかった。
 有木なら十分雪村の後任が務まるだろう。一度挫折を経験したからこそ、同じ轍を踏むことはないと思う。彼と一緒に仕事ができることは、成美にとっても喜びである。
「あ、それから――ちらっと入ってきた話ですけど、そちらの課長がまだ公表されてないって本当ですか」
 その有木が声をひそめたので、成美もつられて小声になった。
「本当です。今雪村さんが局長室に呼ばれているので、その話じゃないかと思うんですが」
 尾崎課長は異動で心ここにあらず。明松補佐はおそらくふてくされて帰宅。
 なので代理として雪村が、早くも課長補佐の仕事をさせられている。まぁ、それも今に始まったことではないのだが。
「私もよく判らないんですけど、一人だけ発表が遅れるのって、よくあることなんですか?」
「いや、聞いたことがないです。でももしかしたら、また本省から人が来るのかもしれないですね。そういう場合、向こうの解禁許可がない限り、公表できないこともあるそうですから」
「あ、なるほど」
「でも通常、霞ヶ関の異動はうちより早く公表されるんですけどね。――じゃ、また何かわかったら教えて下さい」
 そうか。また霞ヶ関から――
 電話を切った成美は、微かに胸がときめくのを感じた。
 夢みたいな話だけど、もしかして柏原課長が戻ってくるのかもしれない。
 そうだったらどれだけいいだろう。柏原課長がいて、その下に雪村補佐がいる。そんな素敵な環境で仕事をすることができたなら。
 そんなことを思いながら携帯をとりあげた成美は、なんの着信も入っていないことに落胆して嘆息した。
 ――氷室さん……。
 どうしたんだろう。メールも送ったし、異動が決まったら真っ先に知らせてくれって言ったからそうしたのに。
 まぁ、急な飲みでも入ったのかもしれない。氷室は基本、人と会っている時には携帯に出ないので、こういう時は連絡のとりようがない。
 異動はなかった。そう伝えたら、氷室はどう言ってくれるだろう。異動がないということは、つまり、年内の結婚になんら支障がないということなのだ。
 ああ、どうしよう。なんだかいいことばかりが立て続けに起きているような気がする。今年はいよいよ氷室さんと結婚……、夢みたいだけど、本当に結婚……。
「あ、雪村さんが戻ってきた」
 篠田の声が聞こえたので、成美は急いでその方に視線を向けた。
 そして、驚いて眉をひそめていた。
 うつむいて局長室を出てくる雪村の表情が、遠目からみても尋常ではなかったからだ。青ざめているというレベルを超え、紙みたいに蒼白になっている。
 その背後から、昨年度から藤家に代わって新局長になった中上が笑顔で姿を現す。
 ――え?
 中上局長の背後から、もう1人、背の高いスーツ姿の男性が現れる。
 成美だけではない。局内全員の視線が、その男に釘付けになっている。
 声もなく、成美は口をぽかんと開けて立ち上がっていた。
 どうして。
 どうして氷室さんが、局長室から出てくるんだろう――
 
 
 
 
「皆さん。お待ちかねの新任の課長を紹介しよう。といっても、よく知っている顔だろうが」
 明るい声で中上が言い、全員が呆然と起立する中、その人が悠然と前に出てきた。
 成美はまだ、夢を見ているようだった。
「氷室です」
 道路管理課長だった頃の氷室と同じ、控えめで優しげな微笑を浮かべると、しなやかなグレーのスーツに身を包んだ氷室は、優雅な仕草で頭を下げた。
「ご存知の方も多いと思いますが、一昨年まで僕は隣のフロアに在籍していました。突然退職いたしまして、皆さんには大変なご迷惑をおかけしたと猛省しております。一身上の都合で国土交通省を退職したのですが、この度、市職員として改めて試験を受け、こちらにお世話なることとなりました。法務担当課長は、身に余る大役ですが、一生懸命努めさせていただきたいと思っております」
 真っ白な空気の中、最初に口を開いたのは誰だったのか――
「じゃ、氷室君。道路局にも挨拶に行こうか。皆びっくりして腰を抜かすぞ」
「お叱りは覚悟していますよ」
 和やかに談笑しながら、中上と氷室が去っていく。
 成美はまだ、席につくこともできなかった。
「びっくり、こんなのアリかよ」
「そりゃ、氷室さんならうちの課は安心だけど、てかあの人、何か事件絡みで行方不明になってたんじゃなかったのかよ」
「じゃあ明松補佐を飛ばして雪村さんを推したのも氷室さんの意向ってことか。まぁ、いかにも能力主義者って感じだから、それくらいの仰天人事はやっちまいそうだけど……」
「日高」
 ぽん、と肩を叩かれ、馬鹿みたいに突っ立っていた成美は、弾かれたように振り返った。そして恐怖で凍りついていた。
「ちょっと、いいか?」
 雪村さん……ち、違うんです。私は本当に、このことは何も……何も知らないっていうか……。
「ちょっと、出ようか」
 にこやかに促され、成美はぎくしゃくと壊れたロボットみたいに歩き出した。
 その笑顔の下に、かつてない怒りが隠されていることは、課内で成美だけが知っていることである。
「あの2人、相変わらずラブラブだよなー」
「どっちかが異動したら、今年こそゴールインかと思ったけど、2人揃って残留じゃあ、結婚はないね」
 そして、いまだ根強い、雪村成美のカップル説。
 え? ちょっと待って。
 雪村の後をついて歩きながら、成美は改めて顔色の悪かった雪村の気持ちに思い至った。
 否定しても否定しても、なお疑われる雪村との仲。今まではそれでもよかった。取り合わなければいいだけの話だからだ。
 が、そこに氷室が加わるとなると話がまるで違ってくる。
 一体氷室は、どういう立ち位置で成美や雪村と接するつもりだろう。いや、どう転んでも、複雑で面倒なことになるのだけは間違いない――
 
 
 
 
「ごめんなさい。本当に私、知らなかったんです。知らなかったっていうか、私が一番びっくりして、今でも何が起きてるのかわかんないくらいで!」
 踊り場に出た途端にまくしたてた成美を、雪村は疲れたように手で制した。
「いい。お前が知らなかったことは、顔色みてすぐにわかった。それまでは確かに激怒してたけどな」
「は、はい……」
 その激怒の程度を思うと、身の縮むような成美である。
「そんなことより、これからお前、どうするつもりなんだよ」
 溜息をつきながら、雪村は伸びた前髪をかきあげた。
「どうするって……」
「氷室さんと別れたわけじゃないんだろ。いや、別れたとしても、つきあってたとしても、やりにくいことこの上ない。同じ課内で、課長と部下だ。どうしてそのあたりの考慮を、あの人は人事に申し出なかったんだろう」
「……言いにくかったから、とか」
「それはないだろ。俺を補佐に据えたり、議員肝いりの明松さんを追い出したり、早くもやりたい放題だ。まずはお前の異動を進言すべきだろ。残した意味がわからない」
 ですよね。
 それは私も、不思議に思っているのですが。
「結婚だって……できないだろ。お前が中途異動でもするなら別だけど」
 その通りだ。
 成美はうつむき、困惑まじりの嘆息をもらした。
 同じ部署にいる限り、結婚なんてまずできない。それどころか、交際が発覚した時点で、必ずどちらかが飛ばされる。それが役所の暗黙のルールだ。
 そんなの……今年結婚するって……お父さんにもそう言って挨拶してくれたのに……。
「ど、どうしたらいいんでしょうか」
「は? 俺にきくか? そんなのお前らの問題だろ」
「う、すみません。だって」
 その時、道路管理課の方から、わっという歓声が聞こえてきた。おそらく氷室の復帰を知って歓喜した職員たちの声だ。
 あんな形で――まるで裏切るように姿を消した氷室なのに、こうして皆に歓迎されている。それも全て、在籍していた頃の彼の人望がなせる技だろう。
 改めて思う。彼は――氷室さんは、この市役所に必要な人なのだ。
 成美を睨むように見ていた雪村が、ふっと諦めたような息を吐いた。
「まぁ……隠し通すんだな。氷室さんもそのつもりだろうけど」
「……はい」
「そんなにしょんぼりしなくても、たった1年の辛抱だろ。新人が3年以上在籍した話なんて聞いたことがない。今年1年で、お前は異動…………って馬鹿馬鹿しい、なんだって俺が、お前を励まさなきゃいけないんだよ!」
 いきなり切れた雪村に、成美はぎょっとして後ずさった。
「いいか。どう考えたってやりにくいのは俺なんだ。あの人が上司? 冗談じゃない。年下の上司の方が何倍もマシだ。内示を聞いた後の数分ほど、本気で役所をやめようと考えたこともなかったよ。全くの謎なんたが、あの人はなんだって俺を補佐に推したんだ? ただの嫌がらせにしか思えないのは穿ち過ぎかよ」
 い、いや、そんなことは……さすがにないと思うんですが……。
「もちろん君の能力を買ったんです」
 穏やかな声が、背後で響く。
 すでにその登場を先に見ていた雪村の顔は、気の毒なほどに強張っている。
 成美は、凍りつくような気分で振り返った。
「この1年の雪村君の働きは、局の誰もが認めるものでしたからね。ぜひともサポート役に……と願うのは、中途入庁の新人課長なら僕でなくとも考えることだと思いますよ」
 ゆっくりと歩み出てきた氷室は、にこやかに微笑んで、並び立つ2人を見下ろした。
 何故だか息を詰まったようになって、成美は思わず後ずさりそうになっている。
「それに、したって……」
 かすれた声で、呟くように反論したのは雪村だった。
「それにしたって、日高を残したのはやりすぎなんじゃないですか。あんた、彼女と結婚する気なんじゃなかったのかよ」
 氷室はわずかに口の端をあげた。
「前半は雪村主査、後半は男としての雪村君ですか。気持ちは判りますが、庁内で後半を出すのは控えていただきたいですね。もちろんプライベートであれば、いくらでも聞きますが」
「…………承知しました」
 答える雪村は、唇こそ無理矢理笑みを作っているが、目は敵意がむき出しである。
「プライベートならいつでも。確かにしかとお聞きしました。去年あれだけもめておいて、大した自信だとむしろ尊敬が深まります。僕も、そろそろ本気を出してみようという気になりますよ」
「なるほど」
「最も敵は、僕1人じゃないですけどね。僕の後任にもそれなりの注意を払っておいてください。彼、去年正式に離婚したそうですから」
 は?
 ちょっとまって、それって一体なんの話?
 ゆ、雪村さん。てゆうかあなた――東京の彼女とうまくいってるはずですよね?
 なんだってそんな、いきなり、終わった話を蒸し返すような――氷室さんを無駄に挑発するようなことばかり言うんですか。
「やれやれ。……これでは先が思いやられますね」
 雪村がさっさと退場した後、氷室が人事にように言って嘆息する。
 呆然と雪村を見送っていた成美は、さすがに怒りを抑えきれずに、その氷室を睨みつけた。
「どういうことなんですか」
「どういうこととは?」
「雪村さん以上に私が混乱してるんですけど。最初からこうなることが判ってたなんて言ったら、マジでほっぺを叩きますよ」
「だからそういうのは、役所を出てからにしてください」
 くっくっと笑いながら、氷室は背後に視線を巡らせる。
「試験を受けたことを秘密にしていたのは謝ります。驚かせたかったのと、まさか同じ所属になるとは、その時は想像してもいなかったので」
「本当ですか」
「当たり前ですよ。――というかその時点では行政推進課に配属されるという話だったんです。ここまで話せばお分かりでしょうが、役所の試験を受けたのは藤家さんの要請を受けたからです。別のフィールドで仕事をしてみたいという気持ちもありましたが……まぁ、お世話になった藤家さんの願いを無下にしたくはなかったので」
 藤家の今の立場を考えると、この異例ずくめの人事が断行された理由もわかる。でも――
 ――じゃあ、この急転直下の同じ所属人事はなにが原因で……?
 その時、廊下から賑やかな足音が聞こえてきた。
「あっれー? 氷室さんどこいった」
「今夜飲みに誘いたいのに。さっきまでこのあたりに立ってたんだけどな」
 道路管理課の若い職員たちだ。
 どうしていいか判らずに立ちすくむ成美を見下ろし、氷室は優しい目になって微笑んだ。
「ちょっと……屋上に出てみませんか」
 
 
 
 
「ほ、星を見たって、今日の私は氷室さんへの怒りを忘れませんよ」
「ごまかす気なんてないですよ」
 氷室は苦笑して、フェンスの方に歩いて行く。市役所の屋上――空はもう暗く、春だというのに2人の吐く息はまだ白い。
「僕の配属先が行政推進から法規に変更になったのは、単に綱引きの結果でしょう。どちらも課長の異動を控え、業務に精通する人間を求めていた。結果、法規が勝ったというだけの話です」
「はぁ……」
 よく判らないが、なんだかすごい自信である。
「君の残留は――まぁ、気の毒としか言いようがありませんが、無能な上司のとばっちりですね」
「え?」
「君の本来の異動先は、総務局秘書課。つまり君の上司、明松補佐が行くところだったんです」
 意味が判らず、成美はぽかんと口をあける。
「が、中上局長が、何がなんでも明松女史を他課に異動させようと粘り抜いた。で、苦肉の策で君が行くべき部署に明松女史をあてがい、君はもう一年残留する羽目になったんです。異動につきものの、不幸な玉突き事故ですよ」
「………………」
 じゃあ、何……?
 これは本当に、ただの偶然?
「あの……」
「はい」
「わ、私たちの結婚って……どうなるんでしょうか」
 氷室は少しだけ首をかしげる。
「君が仕事を続けたいと思う限り、1年は延期した方がいいでしょうね。もちろんお父さんには僕の方から謝罪に伺いますが」
 ――まぁ……確かにそうするしかないんだろうけど……
 判っていても、氷室があまりにも淡々としているので、成美は少しだけ悲しくなって唇を引き結んだ。
「平気、なんですか?」
「そうでもないですよ」
 本当に……?
 人目をはばかるように、氷室が周囲に視線をめぐらせる。そうして成美の肩を抱くと、そっと背をかがめて唇に触れるだけのキスをした。
「けっこう、落ち込んでいる」
「………………」
 頭を抱かれて胸元に引き寄せられ、成美は少しドキドキしながら氷室の胸に頬を預けた。
「でも、恋愛絡みの中途異動は、君のキャリアには間違いなくマイナスになる。僕は君の可能性を摘み取りたくはないんです」
 わかってます。
 氷室さんが決断しなくても、私も同じ結論を出していたと思います。
 ちょっぴりどころじゃなく寂しいし、これからの一年を思うと少しどころじゃなく憂鬱ですが――
 こうするしか、ないんですよね。
 じわっとまぶたの奥が熱くなる。成美はそっと、氷室の背に両手を回そうとした。
「それに、ちょっとおもしろいかな、と思って」
 え?
 氷室の言葉に、動きを止めた成美は、訝しんで顔をあげた。
 今、もしかして面白いって言った?
「こういう経験をしておいても悪くないな、と思いましてね。これまでは他部署の課長と主事だった。それが4月から本当の上司部下になるんですから」
「はぁ……」
「せっかくですから、危険なオフィスラブを楽しみませんか。僕は、――嫌いではないです」
 ………………。
「はァ?」
 怒りの声をあげる成美から、氷室は笑いながら身を離した。
「では、また4月に。日高さん。僕は会社の引き継ぎがあるので、いったん安治谷に帰ります。お父さんには明日にでも挨拶に伺わせてもらいますよ」
「ちょっ、待ってください。面白いってなんですか。嫌いじゃないってなんですか。もしかしなくても、それが本音なんじゃないんですか」
「それはご想像にお任せします」
 楽しそうに答える氷室は、もう颯爽と前を向いて歩いている。
 成美は憤慨しながら後を追った。
 本当にこの人は―――どこまでいっても危険な男だ。
 そうして4月からは、正真正銘成美の上司。氷室のことだから、予告どおり存分にそのシチュエーションを楽しむつもりなのだろう。
「もうっ、氷室さんの馬鹿!」 
 成美の声と、氷室の微かな笑い声だけが春の夜空に響いている。
 おぼろに浮かんだ柔らかな月が、もつれあうようにして歩く2人を暖かく見下ろしていた。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
                                 危険な上司 (完)
 








長い間ご愛読くださり、本当にありがとうございました。 2015.12.7 石田累
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。