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「いや、だから何も明凛さんが出なくてもいいんですよ」
「でも今日は仕事も休みで、丁度私も暇だから」
 一向にひるむ気配もなく玄関でパンプスを穿く明凛を、沢村は嘆息して見下ろした。
「……言いたくねぇけど、自治会は、俺の担当でしょ」
「あら。そんなのいつ決めたのかしら」
 微笑んで背筋を伸ばした明凛は、白いシャツに、脚にぴったりと合ったグレーのパンツを身につけている。――ほぼ、出勤時と変わらないスタイルに、ますます沢村は困惑した。
「自治会の総会っていっても、そんな、御大層なものじゃないっすよ」
「まぁ、いいじゃない。時間もないし、急ぎましょ」
 ホテルミラノの騒動から、3日後の日曜日、午後7時。
 マンション横の公園にある集会所で、今夜はこれから「アフターミッドナイト」自治会の総会が行われる予定になっていた。
 昨日緊急で回覧板が来て、急きょ開会が決まった自治会総会。議題はどうせ、親睦旅行か次期会長を誰にするかだろう。委任状を出して不参加を決め込もうとした沢村だったが、何故か今回に限って、明凛が行くと言い出した。
「沢村さんこそ、家で勉強してればよかったのに」
「そういうわけにもいきませんよ」
 沢村はむっと眉を寄せた。これだから世間知らずのお嬢様は扱いに困る。猛獣どもの集いに、まさか明凛1人を行かせられはしない。
 しかしこれで、さしもの人間性善説の明凛にも判るだろう。このマンションに住み続けることが、明凛のような立場の者にとって、いかに危険かということが。
 プレハブ建物一階の座敷に入ると、座布団が敷き詰められた会場は、ほぼ大半が住民たちで埋まっていた。顔ぶれは、殆どが草引きで顔を合わせるメンバーだ。一度だけ行ったWHLで顔を合わせた男たちもいる。男、男、男――草引きの時もそうだが、相も変わらず男率が高すぎる。
 思わず明凛を肩で隠すようにした沢村だが、すでに会場のほぼ全員が、入り口に立つ明凛と沢村に目を向けていた。
「できるだけ、端の方に行きましょう」
 じっとりとした熱視線を全身に感じながら、沢村は苛立ちを抑えて、明凛の手を引っ張った。なんだろう。ぶしつけなくらいじろじろ見られている。むろん、初めて自治会に顔を出した明凛が珍しいからだろうが、もはや一秒たりとも、この人を他人の好奇な――おそらく性的なものが混じった視線にさらしたくない。
 全くもって失敗だった。明凛が言い出したら聞かない性格なのは知っていたが、ここは大喧嘩してでも、来させるべきじゃなかった――
「尾崎さん、来ていないみたいね」
 隅の方に場所を取ると、その明凛が、冷静に周囲を見回してから口を開いた。
 気もそぞろに頷きをかえしたものの、正直言えば沢村には、尾崎が来ようが来まいがどうでもよかった。ただ、明凛を見る周囲の目がひたすら気になって仕方がない。
「明凛さん、やっぱり」
 部屋に戻りませんか――そう言いかけた時だった。
「沢村さん。私ね、私も沢村さんに隠していたことがひとつだけあるの」
 明凛が、前を見たままで静かに言った。
「いつだったか沢村さん、自治会の親睦旅行に行こうかどうかで悩んでたでしょ。私、気づかない間に沢村さん一人にマンションの人間関係を背負わせていたんだと思って、すごく反省してしまったの」
 その話がいつのことか、最近の出来事があまりに目まぐるしかっただけに、思いだすのにはしばしの時間が必要だった。――で、完全に思い出す前に明凛は続けた。
「沢村さんに問い質したところで、私に気を遣って話してくれないことは判ってる。だから私、直接自治会長の吉田さんに連絡をとってみたのよ」
 吉田? 吉田――自治会長――もしかしなくても、さくらママのことだ。
「えっ、は?」
「まず、親睦旅行には無理に参加する必要はないと言われたわ。でも吉田さんとしては、沢村さんには是が非でも来てほしかったみたい。沢村さん、このマンションの若い人たちに、すごく人気があるんですってね」
「え? 俺が?」
 意味が判らずに瞬きする沢村を、明凛はどこか、同情するような目でしばし見つめた。
「私も自治会の中での沢村さんのことが聞きたくて……その晩は吉田さんと随分話し込んでしまったの。まぁ、妙にうまがあった、とでもいうのかしら。それで、期せずして彼……彼女のプライべートな話も聞いてしまってね」
「ちょ、――すみません。確認ですが、その吉田さんって、さくらママのことですか?」
「その呼称の方が頭に入りやすいのなら、さくらさんとお呼びするわ。ええ、そうよ」
「…………」
 嘘だろ? 明凛さんがあの――鼻ピのヒアルロン酸の――俺ですらまともに話すのが恐い、あのさくらママと?
「それで、本題に関係のない部分は省略するけれど、さくらさん、次期自治会長を誰にするかで、随分悩まれていたようでね」
「……副会長の紀香マ……紀香さんで決まりだって、聞きましたけど」
「さくらさんとしてはそのつもりだったけど、反対派の突き上げが凄かったらしくてね。さくらさんの引退が確定路線になった途端、もし紀香さんが自治会長になったらマンションを出て行くみたいな投書が連日のようにご自宅に送られてきたそうよ。紀香さん、仕事はできても、人望面でやや難がある方のようね」
「まぁ、確かに、ちょっと過激な発言が目立つ人でしたからね」
「とはいえ、さくらさんには、どうしても他の人に頼みたくない事情があったみたいでね。まぁ、それを、口の固い彼女から聞き出すのが大変だったんだけど……」
 憂鬱気に眉を寄せる明凛を、沢村は口を閉じるのも忘れてしばし見た。
 いや、あんた一体、何をやってたんだ。毎日忙しくて帰りはいつも午前様。それほどの激務の中、一体――
「なにしろ10年近く、さくらさんと紀香さん、それから会計の烏丸さんの3人で自治会をしきってきたわけだから、色々……まぁ、ぶっちゃけて言えば会計的に曖昧になってる部分が随分あったらしいのよ」
「え?」
「引退にあたって改めて帳簿を調べてみたら、この5年で、トータルで300万くらい、数字があわなかったそうよ」
「なんすかそれ。大問題じゃないですか」
 さすがに沢村は顔色を変え、思わず周囲に視線を巡らせた。幸い、囁くような明凛の声は、誰にも聞こえていないようだ。
「さくらさんは、きっちりした方だから、ご自身の財産からそれを補てんしたのだけど、もちろん、事情を知らない人が帳簿を見れば、つじつま合わせは簡単に判ってしまうわよね」
「判るも何も、そんなの隠す方がおかしいじゃないっすか。つまり――あれですか、不正は、会計の烏丸さんが……」
「さくらさんにも確信はないようだったけど、当然、烏丸さんを疑われていたんでしょうね。ただ、私も調べてみたけど、あの3人の役割分担は思ったより曖昧で、会計的な処理は3人が同じような権限でやっていたみたいなのよ。誰が、いつ、どのような方法で不正を働いたかは、膨大な書類を一枚一枚たぐってみるしかなくて、まぁ……こういっては悪いけれど、さくらママにも紀香さんにも、それは少し無理な話だったんでしょう」
「いや、それだったら警察に行くべきでしょ。だってそれ、自治会費の横領みたいなものじゃないっすか」
 それには明凛はしばし黙り、それから再び口を開いた。
「それで、私の方で調べてみましょうということになったの」
「…………、は?」
「少し時間はかかったけれど、だいたいのお金の流れは判ったわ。不正をしていたのはやはり烏丸さんだった。しかも烏丸さんは、住民を扇動して、自分が次期自治会長になるよう、裏工作までしていたようなの。つまり紀香さんが自治会長になったらマンションを出て行く云々の投書は、全てあの人がやらせていたという訳よ」
「……なんで、そんな」
「自分がやってきた不正がばれるのが恐かったからでしょう。嫌がらせの投書どころか、烏丸さんは、住民の3分の2の署名を集めて、さくらさんの罷免を求めようとしていたようでね。自分が会長になり、紀香さんを追い出してしまえば、もう怖いものはないじゃない。もしかすると、さくらさんか紀香さんに、罪を被せることまで考えていたのかもしれないわね」
 ――怖え……。
 信じられない。あのくしゃっとした猫みたいな善人そうな小男がそんな――。そこまでの悪党だったとは。
「……で、その烏丸さんが、住民を扇動するために作った組織が件のWHLよ」
「……え?」
「尤も、そこまでを確認するのがすごく大変だったんだけどね。さすがに一人じゃ手におえなくて、調査会社に依頼したわ。あ、金銭的なものは、全部さくらさんが負担してくれたから」
「…………」
 いや……、繰り返しになりますが、あんた……この忙しいのに一体何を。
「やっかいなのは、WHLに烏丸さんが直接関わっていないことだった。つまり住民の中に、烏丸さんの手足となって動いている人がいたのよ。それが最後まで誰だか判らなかっのだけど」
 さすがに沢村は、はっとして顔を上げた。
「まさか、尾崎さんですか」
「その通り。あなたとマリさんが思わぬ騒動を起こしてくれたおかげて、ようやくそれが判ったというわけよ」
 いや、騒動を起こしたのは明凛さんと紫凛であって、間違っても俺とマリさんじゃないと思うが――まぁ、そんなことはどうでもよくて。
 つまりあれか? 専業主夫の不満をあおって、WHLに参加させ、そこで烏丸さんのシンパにしようっていう……。嘘だろ。俺、そんなくだらない思惑にのせられて、この忙しい中、何時間も無駄にさせられたってのか。
「尾崎さんは、あなただけはどうしても仲間に――しかも、運動の中枢人物として、あなたを巻き込みたかったようね。ご自分の内縁の奥さんまで使って誘惑させて、どうにかしてあなたの弱味を握ろうとしていたようだし」
「……え、それは、どういう……」
「判らない? 烏丸さんの最終目的は、住民の大多数の支持をとりつけて、自分が会長になることなのよ。そのためには、まだまだ支持人数が不足している。そこで考えた人員集めの最後の手段が、あなた、沢村さんだったというわけよ」
「いや……、え? 意味が判らないんですけど」
 
 その時、からりと引き戸が開いて、今夜の主役――三婆たちがやってきた。
 ラメ入りスリットドレス姿のさくらママ。しなは作れても、歩く度に重みで畳がミシミシと音を立てている。そして続くのはピンクのチャイナ服の紀香ママ。
 そこに、烏丸の姿はない。
「さぁさ、みなさん、静粛になさってちょうだい」
 パンパンッと手を叩いて、紀香ママがよく通る声をあげた。
「定数に達したので、アフターミッドナイトの住民総会を始めます。ご承知のとおり、会長のさくらママは今季限りで勇退です。今日は、次期会長を決定するために、みなさんにこうしてお集まりいただきました」
「よッ、紀香ママ!」
 誰かが威勢のいい合いの手を入れた。ぱらぱらっと一部から拍手があがる。おそらくは次期会長に向けたエールであろう。
 なんとなく嫌な気になって沢村は、声のした方を振り返った。そして、思わず眉をあげた。
 ――尾崎さん?
 会場の最後尾で、一人盛大な拍手を送っている骸骨みたいな男――尾崎は、沢村と目が合うと、悪びれもせずにひらっと手を振って見せた。
 その節はどうも、とも言いたげな表情の軽さに、思わずかっとなった沢村は腰を浮かせかけている。
 その腕を、隣の明凛がやんわりと掴んだ。
「まぁまぁ、あの人はしょせん、頭の使い道を持て余している退屈なだけの男よ。今回の騒動にしても、横領そのものには関わってなくて、面白半分に烏丸さんを持ち上げていただけ。マリさんともども罪の意識もないみたいだし」
「でも、」
「真剣に考えたら負けなんでしょ。それ、沢村さんが言ったんじゃない」
 それはそうだが――それでもやっぱり許せない。
 つまり、俺は最初から最後まで、あのヒョロっとした、いかにも死期が近そうな、人を頼って生きるしか能がなさそうな男に騙されていたということになる。甘言や讒言で騙されたのなら、まだ自分が馬鹿だったと納得もできる。だが――
「あの野郎、……マリさんがいなかったら、生きていけないみたいなことを言ったんです」
 悔しさを奥歯で噛みしめながら、つい沢村は、言ってもせん無いことを口にしていた。
「俺、馬鹿みたいに同情しちゃって……、なんていうか」
 つい自分とシンクロさせてしまった。冷静に考えれば色々おかしなことだらけだったのに、そこで正常な判断力をひとつ、失ってしまっていたのだ。
「みなさん。今までありがとうございました。会長のさくらです」
 その時、ドスのきいたハスキー声が響いて、沢村の意識を現実に引き戻した。
「予定より一ヵ月早いのですが、実は事情がありまして、今月を持ちまして会長職を引退したいと思います。そして次期会長ですが、推薦者や希望者がいなければ、私と紀香さんで推薦した人物にお願いしたいと思っておりますが、いかがでしょうか」
「……烏丸さんは、どうしたんですか?」
 沢村が小声で訊くと、同じように声をひそめて明凛が返してくれた。
「すでに引っ越されたそうよ。使い込こんだお金については、分割して支払うよう、誓約書を書かせたから大丈夫」
 ――まさか、それもあんたがやった?
「……まぁ、関わった以上仕方はないですけど、これ以上面倒ごとに首をつっこむのはやめてくださいよ」
「さくらさんね。長年結婚したくてもできなかった人がロサンゼルスにいて、その人が、この春、末期がんで余命宣告されたそうなの」
「え?」
「ようやくあちらのご家族の許可ももらえて、一日も早く渡米されたかったのよ。警察ごとや訴訟に関わっている時間もなかったというわけ。それを聞いて、私、心から同情してしまったわ。……好きな人と離れ離れでいる辛さは、私もよく知っているから」
「…………」
「では、ご賛同を得られたようなので、私の方から次期会長を指名させていただきます」
 壇上に立つさくらママの声がした。沢村が視線を向けると、彼女は真っ黒な目を細めて、満足気な笑みを浮かべる。
「明凛ちゃん、さ、こっちに来て自己紹介してちょうだい」
 何が起きたか判らない沢村の隣で、明凛が颯爽と立ち上がった。
「みなさん。はじめまして。会長に指名されました柏原明凛です」
 沢村は――声も出なかった。
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。