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「まぁ、いい加減くどくど言うのはやめて、部屋で勉強でもしてきたら」
「はぁっ? くどくどってなんっすか。そんないかにも面倒くさそうな――そういうこと言える立場ですか、あんた」
 沢村がまくしたてると、明凛はため息をついて、書類から顔を上げた。
「沢村さん。私たちはお互いに何を言ってもいい立場よ。でも、あなたの言っていることは、先ほどから同じ内容の繰り返しばかり。言いたいことならもう判った、と言っているの」
「同じことを繰り返すのは、何度言ってもあんたがきかないからでしょう」
 沢村もまた、引き下がらなかった。
 冷房の音だけが響くリビングで、2人はしばし険悪な目で見つめ合う。
 先に音をあげたのは、意外にも明凛の方だった。
「判ったわ。判りました。沢村さんに黙って勝手に決めたことは謝ります。でも決まってしまった以上、今さらどうしようもないでしょう。任期の間はしっかり務めさせて下さい」
「……任期って……」
「3年」
 沢村は額に手をあててうなだれた。いや、3年て……、俺、年末にもこのマンションを出るつもりでいたんですが
「まぁ、いいんじゃない。このマンションには沢村さんのファンも多いわけだし、案外慣れてくれば居心地がいいかもしれないわよ」
「冗談じゃない、嫌ですよ、俺、そっちの気は全然ないですから!」
(尾崎さんは、あなただけはどうしても仲間に――しかも、運動の中枢人物として、あなたを巻き込みたかったようね)
 明凛に言われた意味不明の言葉の意味は、今日の総会の終了後にようやく判った。
 さくらママらと話している明凛を所在なく――いや、未だ事態が飲み込めないまま呆然と待っていたら、そこを、男たちの集団に取り囲まれたのである。
(沢村……いや、兄貴って呼ばせてください!)
(実は俺たち、兄貴がこのマンションに越して来たときから、ずっとファンだったんです。その顔も体もめっちゃ好みです!)
 それは、独身独り暮らしの連中だった。草引きで顔を合わせたことはあるが、口を聞いたこともない面子ばかりだ。話をきけば、同じ系列の店――ゲイ系の――に勤めている、広い意味での仕事仲間らしい。
 その熱すぎる視線に取り囲まれた時、沢村はようやく、マンション内を歩いている時に時折感じた、じっとりと重苦しい視線の正体を理解した。
 ――こいつらだったのか……。
(兄貴のケツ、最高です!)
(今日も兄貴が入ってきた途端、俺たちの視線は釘づけですよ。でも安心してください。兄貴がノンケなのはよく知ってます。俺ら協定を結んで、誰も兄貴に手を出せないよう厳しくお互いを見張ってますから)
 いや、それ以前に、間違っても俺をそんな目で見ないでくれ!
 明凛を心配している場合ではなかった。いや、むしろあの場では、明凛の方が沢村を心配していた。だからあんな、どこか同情的な目で見られていたのだ。
 彼らはマンション内では若手に位置し、いわば青年会のような存在であるらしい。しかし自治会に積極的に参加しているわけではなく、選挙でいうところの浮動票。その浮動票を獲得するための手段として、尾崎は沢村を取り込もうとしていたのである。
 かえすがえすも恐ろしい……。そんなところにあと3年。尾崎は全く懲りていないようだし、神様、俺は無事に、貞操を守れるのでしょうか……。
「沢村さん」
 気づけば、向かい合わせに座っていた明凛が、沢村の隣に腰を下ろしていた。
「色々あったけど、今回のこと……ひとつだけ、私、嬉しかった」
「え……?」
 ふんわりと腰に両腕を回され、少し小首をかしげた顔に、息がかかるほどの距離で見つめられる。今まで頭を占めていた悩みも恐怖も忘れ、沢村は耳を熱くしていた。
「最初は、マリさんの胸に惹かれてあんな馬鹿な企みにひっかかったのだと思ってたけど、そうじゃなかったのね。マリさんを何とかして欲しいっていう、尾崎さんの熱意にほだされたのね」
「ほだされたっていうか……、まぁ、それも結局騙されてたんですけど」
「もしかして、尾崎さんの立場を自分に置き換えて、マリさんの件に首をつっこんじゃったのかな、と思って。そう思うと、なんだか嬉しくて」
 マリさんがいないと生きていけない。
 その言葉は、沢村の深い部分にしみ込んでシンクロした。俺だって、明凛さんがいないと生きていけない。肉体ではなく精神的な部分で。
 この人を失えば、きっと心のどこかが同時に死んでしまうだろう。
「俺も、嬉しかった」
 明凛の華奢な身体を壊さないように抱きしめながら、沢村も思わず口にしていた。
「……納得はしてねぇけど、あんたがさくらママに同情した理由を聞いた時は……、ちょっと、嬉しかったです」
 そっと重なった淡いキスに、少しずつ熱が宿っていく。
「……すみません。収まらなくなってきた」
「このまま、沢村さんの部屋に連れて行って」
 珍しく甘えたような明凛の声に、胸の深いところが鋭く疼いた。
 明凛を横抱きにして性急に立ち上がった沢村は、足で蹴るようにしてリビングの扉を開けると、急いで自分の部屋に向かった。
 
 
 ――まさか、こんなに上手くいくとは思わなかった……。
 やっばり紫凛の女としてのキャリアは底知れない。これからも紫凛には、最大限の注意が必要だわ。
 今夜、最大の修羅場(あくまで明凛が想定する限りでの)を乗り切った明凛は、隣で眠る人の横顔をそっと見つめた。
 自治会長を引き受けることにしたのは、明凛にしても大きな決断であり、相当悩んだ末に決めたことだった。さくらママの熱心な頼みに心動かされたせいでもあり、最終的にはマンションのオーナーと相談して決めたことでもある。
 しかし、当然のことながら、沢村の反対は予想できた。それも相当な反発と、かなりの怒りがそこに伴うだろうということも予想できた。
 時間をかけて説得する自信はあったものの、問題は時期が悪すぎるということだ。あと2週間もすれば目指す公務員試験が始まる。その試験を前に、沢村の心を乱すような真似はしたくない……。
(烈士を手っ取り早く説得したい? そんなの悩む必要もないくらい簡単なことよ。しおらしく甘えて、それとなくおねだりしたらイチコロなんじゃない。あいつ、お姉ちゃんに関しては馬鹿みたいに甘くて単純だから)
 事前に作戦を練りはしたものの、実行には相当の葛藤が必要だった。まさかこの私が、好きな人を擬態でまるめこむなんてそんな真似……。しかも数日前、甘えようとして病気かと疑われた苦すぎる過去もある。到底上手くいくとは思えない。
 しかし、堂々巡りの議論に意を決して沢村の隣に座った途端、すでに擬態は必要なくなっていた。
 彼を見つめた途端、本当に素直な愛情が胸にこみあげてきた。用意した言葉の代わりに、ぎこちないながらも本当の想いを伝えることもできた。後は――びっくりするくらい自然に、彼に甘えられた。
(明凛……、可愛い、今夜はまるで、別人みたいに甘えるね)
 自分の声や行為を思い出すとさすがに頬が熱くなってしまう。どうしてあんな真似ができたのか。――結果自然な流れだったとはいえ、きっかけはやはり「そうするしかない」という切迫した気持ちだろう。
「……明凛さん、起きた?」
 その時、眠そうな沢村の声がして、うつむいていた明凛は顔をあげた。
 多分無意識のままに沢村の腕が伸びてきて、明凛の首の下に入り込んで抱き寄せてくれる。
「何時?」
「12時を過ぎたくらい……、私も少しうとうとしてて」
 そう返した明凛は、沢村の引き締まった腹に両腕を回して、暖かな素肌に頬を寄せた。
「今夜は、このままここで寝てもいい?」
「いっけど……、このままだったら、またしたくなるよ、俺」
 それは由々しき問題だ。明日は仕事だし、沢村が寝不足になっても困る。
 それが判っていても、明凛はまだ起き上がることができずに、彼の胸に身を預けていた。多分沢村にも明凛のそんな葛藤が判っていて、ただ無言で髪を撫で続けてくれている。
「実は俺、本音を言えば、温泉にちょっと行きたいと思ってたりして」
 その沢村が、不意におかしそうな声で呟いた。
「え?」
「自治会の面子で行くのかと思うとぞっとするけど、明凛さんと温泉なんて、行ったことないじゃん」
「……え、だったら……、でもどうしよう。自治会の旅行なら、中止にしようと思っているのよ。あれもどうやら烏丸さんが自治会費を上乗せさせるために、企画したことみたいで」
「2人で行こう。試験が終わったら。――大丈夫、俺、絶対に合格するから」
 ふんわりと抱きしめられて、額に唇があてられる。明凛はどぎまぎしながら、沢村の背中に手を添えた。
 え、なんだろう。沢村さんはいつも優しいけど、今のはなんか……いつもと少し違うような。
 こんなに積極的に、2人でこうしようとかああしようとか、言ってくれる人だったっけ。だいたいがいつも受け身で、私が2人の将来のことを話しても、どこか他人事のように冷めた目をしていたのに。
「……どうしたの?」
「どうしたのって?」
「だって、なんだか……いつもより素直な感じがして」
「さっきの明凛さんが可愛かったせいかな。普段より可愛く鳴いてくれて、俺もすげぇ興奮したから」
「……は、はっ?」
 い、意味がわかりませんよ。そのたとえ……。
「絶対にあんたの隠し事の方が性質が悪いと思うけど……、まぁ、今回は俺もちょっと反省したよ。隠し事をされる辛さみたいなものが、よく判った」
 明凛は黙って、暗く翳った沢村の横顔を見上げた。
「心の中の問題でいうなら、俺、いっぱいあんたに本音を隠してたな、と思って。……まぁ、全部見せるのは、どのみち無理なんだけど」
「うん……、今日のことは、本当にごめんね」
「いいよ。俺もごめんな」
 自然に唇が重なって、沢村の身体が上になる。
 胸がいっぱいになって、幸福で言葉も出てこない。
 沢村さん、好き、大好き。この世の誰よりもあなたが好き。私だって、あなたがいないと生きていけない。――
 けれど、ただ1点、これは絶対に――今の時点では何があっても沢村には言えない秘密を、明凛は抱えているのだった。
 それは、この春、沢村とようやく再開した直後に遡る。
 2人の住処をどこにするかで考えあぐねていた明凛は、いくつもの不動産屋を回り、家賃、立地などの条件面や、今後、沢村が絶対に逃げ出す気にならない環境を模索していた。切実な問題は後者で、まさか24時間監視付きや檻付きのマンション(そもそもそんな物件はない)を借りるわけにもいかず、さしもの明凛も手詰まりな状況だったのだ。
 そんな時、思わぬ人物から、別件で電話がかかってきた。その人物も人物で、当時は様々なトラブルを抱えていたのだが――ついその相手に、明凛は家探しの悩みを打ち明けてしまったのである。
(沢村さんを縛っておく方法? そんなの簡単な話でしょう。常に、柏原さんと離れられない状況を作ってやればいいんですよ。つまり、トラブルの種を常に身近に置いておくんです。俺がいなくなったらこの人が困るんじゃないか……と思えるような)
(うってつけの物件を知っていますよ。やや住民の職業が偏っていますが、それもオーナーが意図してのことです。まだLGBTへの理解がなかった頃、彼らが住みよい住居を……ということで、オーナーが知人らとそういったマンション経営を始めたんですよ。今はLGBTに限らず雑多な人がお住まいになっているそうですが、まぁ、動物園みたいに楽しいところだと聞いています。オーナーが変わり者? ああ、そうかもしれませんね。まぁ、いってみれぱ僕のことですが)
 契約書には、委託された管理会社の名前しか出てこないが、つまり遡れば、2人が暮らすこの建物の所有者は――
「明凛さん?」
 いつかその事実が判れば、どれだけこの人は怒るだろう。おかしな言い方にはなるが、最初からずっと彼の元上司の手のひらの上にいたことを知れば。
 数秒、迷いを目に泳がせた明凛は、首を振るようにして微笑んだ。
「……なんでもない。愛してる」
 誤魔化したいから素直になれるというのも、おそろしく皮肉な話である。
 でも、やましい気持ちがなければ、こんな恥ずかしい言葉、絶対に言えない……。
「隠し事も、たまにはいいかもしれないわよ」
「え?」
「ううん、なんでもない」
 やがて、様々な迷い葛藤も頭から消え去って、明凛はただ、愛する人の名前をうわ言のように繰り返した。



 
 
 
 (終)
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。