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「まぁ、一言でいえば頼まれたんです。尾崎さんに」
「頼まれた……?」
 明凛が見上げると、沢村は少しくすぐったそうに眼を逸らした。
 淡い照明に照らされたベッドで、ホテルのナイトウェアに身を包んだ2人は、束の間うとうとと眠っていた。
 喉の渇きを覚えて目を覚ますと、時刻はもう午前2時になっている。明凛が起き上がると同時に沢村も目を覚まして、2人は今、ミネラルウォーターのペットボトルを手に、寄り添い合うように座っていた。
 尾崎の内縁の妻との浮気疑惑について、最初に切り出したのは明凛の方だ。
 明日――正確にはすでに今日、落ち着いてからじっくり話をするつもりでいたが、思い直した。それを待っている間に、また新たな問題が沢村に降りかかってもまずいと思ったからだ。
 正直言えば、昨日まで明凛は、沢村が「WHL」なる組織に関係しているとは夢にも思っていなかった。沢村自身はまるでピンときていないようだが、それは案外重要な意味を持っているのである。
「待って。じゃあ今日、沢村さんは彼女に連れられてこのホテルに来たわけじゃないの?」
「いや、まぁ――、最初から順を追って話してもいいっすか」
 身の潔白を証明したいらしい沢村は表情を引きつらせたが、明凛にとって、それはもう証明済も同様だ。
 今、明凛が確認したいのは、ただ、沢村がこのホテルに――つまり「WHL」に向かったきっかけなのだが、そこは逆らわず、しばらくは沢村の説明を聞いてみることにした。
「尾崎さんに頼みがあるっつって呼び出されて……今から一週間くらい前っすかね。その時、内縁の妻の――マリさんっていって今日の人ですけど、マリさんが悪いホストに騙されてるみたいだから、なんかしてくれないかって言われたんですよ」
「それは、沢村さんが元ホストだから?」
「まぁ、そうなんでしょうね。ホスト時代の経験を生かして、奥さんを説得してくれないか、みたいな」
「なんだかドラマみたいな話ね。それで?」
 どこか奇妙な匂いを感じつつも冷静に問うと、沢村は言いにくそうに視線を下げた。
「あまり深く関わるつもりはなかったんですけど、龍郎さんに頼んで、裏から手を回してもらうくらいはできるかもしんねぇなって。それで、事情だけでも聞くつもりで引き受けたんですが……」
 それからくどくどと続く沢村の言い訳を、明凛は眉を寄せながら聞いていた。
 沢村が言うには、マリさんこと、小説家尾崎の内縁の妻は、余計なおしゃべりをするばかりで一向に本題に入ってくれなかったということである。(沢村は言葉を濁していたが、その内容はほぼ、沢村のプライベートや趣味や嗜好を聞き出すことだと推測された)
 何度か会って、ようやく本題めいた話を聞き出しても、調べてみれば嘘や作り話ばかり。さすがにうんざりした沢村が引き上げようとすると、こんなとんでもないことを言いだしたと言う。
(沢村さぁん、実はあの人ぉ、浮気してるみたいなんですぅ)
 注・イントネーションなどは明凛の想像
「……信じたの? まさか」
 明凛は、氷よりも冷ややかな目で、隣の沢村をちらりと見上げた。
 沢村は、ぎくりとしたように唇をひきつらせる。
「ま、……信じた? つーか、俺も尾崎さんのことは、あまりよく知らなかったし、言われりゃ、そういうこともあるのかな、みたいな」
 ようやく明凛にも、紫凛の怒りが理解できた。
 同時に、ここまでの話で、最初から感じていたマリへの違和感と不快感の正体も理解できた。ノーブラの白ワンピも意図的だ。どう考えても、その間、沢村はマリに誘惑されていたのである。
「――もちろん俺だっておかしいとは思いましたよ? でも、俺がそれを尾崎さんに言っても、あの人、マリさんはそんな女じゃない、何勘違いしてんだって、すごい剣幕で怒りだすんですよ」
 ――判った。と明凛は手を上げ、沢村の言葉を遮った。つまるところ大の男2人が、小悪魔ホルスタインに振り回されていたということか。
「もういい。私が明日、その尾崎さんと話をつけます」
「いやいやいや! もういいんです。俺の方も、明凛さんがあんなことになって、今日はさすがにブチ切れちゃって……、まぁ、俺以上に、とにかく紫凛が、ものすごい剣幕で」
 ああ――。
 私が話をつける前に、紫凛がつけてくれたのか。それは尾崎さんもマリさんも、さぞかし恐ろしい思いをしただろう。
「さっき、明凛さんが眠ってる間に、向こうがマリさんつれて謝りに来ました。ホストに騙されてるうんぬんは全部作り話で、だた小説を書くネタが欲しかっただけだって」
「小説?」
「つまり奥さんが隣の住人と浮気してる的な――リアルな自分の嫉妬心を文章にしたかった的な――」
「なにそれ、つまり……」
 マリさんと沢村さんを浮気させて、それを覗き見でもしながら、小説の材料にするという……そういうこと?
「お願いだから真剣に考えないでください。まともに考えたらこっちの負けです。要は、2人とも感覚が普通じゃなかったんですよ」
 明凛は、心底呆れた目で沢村を見つめた。大切な試験前に、そんなくだらないことに何日も振り回されて――馬鹿じゃない?
 そもそもこの人って、そこまでお人よしだったのかしら。そこまで鈍い男だった? もしかして、マリさんの下心を薄々察して、それをむしろ楽しんでたんじゃ……。
「……今、だいたい何考えてるのか判りましたけど、そういうんじゃ、ないですから」
 沢村は咳払いをしながら、眉を寄せる明凛の肩を抱きよせた。
 誤魔化すつもり? と一瞬むっとした明凛だが、肌のぬくもりに触れていると、不思議に腹立たしい気持ちが薄れていく。
「もちろん俺だってマリさんの下心は判ったし、随分腹も立てましたよ。だから今日は、マリさんの言うところの尾崎さんの浮気現場に、乗り込んでやろうと思ってたんです」
「……まさか、それがこのホテル?」
 怒りで肝心なことを忘れかけていたが、そうだ、ここからが明凛にとっての本題だ。
「マリさんが、ホテルミラノが尾崎さんと浮気相手の密会場所だなんて口から出まかせを言うから、それは違うだろうってさすがにカチンときたんです。だって、尾崎さんがちょくちょくこのホテルに出入りしてたのは、なにも浮気のためなんかじゃなくて、」
 そこで言葉を切った沢村は、今気づいたとでもいうように眉をあげた。
「そういえば明凛さん、どうしてWHLのことを知ってたんですか!」
「…………ああ」
 沢村にとっては最大の謎を、いかに最短で切り抜けるか。明凛は2秒考えた。
「いつだったか、住民同士の立ち話を耳にしてしまったのよ。アフターミッドナイトには、主夫同士の集まりみたいな会があるって」
「立ち話? いや、でもすごく秘密主義というか、全員、奥さんや恋人には絶対ばれないようにこっそり集まってたみたいですよ」
「みたいね。妻を心から愛する男の会だっけ。そんないいわけがましい名称をつけて、男同士が配偶者の不満や愚痴をこそこそ言い合ってたわけだから」
 WHLとは、WIFE HEART LOVEの頭文字を集めたもの。
 まるで対訳になっていないが、「妻を心から愛する男の会」の略称である。
 明凛の切り返しに、沢村は、目を白黒させるようにして咳き込んだ。
「あ、明凛さん。確かに尾崎さんに誘われはしましたが、俺は断じてそんなものには加わってないっすから」
 明凛は視線をとめ、冷静に沢村を見つめた。
「そう。尾崎さんが。――で、尾崎さんは、なんて言ってあなたを誘ったの?」
「いや、だから主夫業のストレスを、みんなで語り合えるいい場所からあるからって」
「行った?」
「す、少し前に一度だけ。あんまりしつこいから断り切れずに。でも、なんだか様子がおかしかったし、それから二度と行ってないですよ」
「様子がおかしいって?」
「なんつーか、やたらめったら俺を持ち上げるというか――いきなり新参の俺に会の代表になれとか言うし、ちょっとこいつら、頭がおかしいんじゃないかなと思って」
 正解よ。沢村さん。
 明凛は心の中で頷いた。
「ああそうだ。確かその帰りに、尾崎さんにマリさんのことを頼まれたんです。なんだったんすかね、一体。いくら小説のためでも、そういう真似、普通できます?」
「奥さんを、作品のために売るような?」
「いや、まぁ……そこまでとは言いませんけど」
 そこで言葉を切った沢村が、明凛を見てから、少しぎょっとしたように顎を引いた。
「な、なんかすげー恐い顔になってません? まるで、2時間ドラマの刑事みたいな」
「沢村さん、あなたもまだまだ甘いわね」
「……え?」
 これでようやく謎が解けた。
 尾崎さんが欲しかったのは、何も小説のネタなんかじゃない。
 そして、尾崎さんが本当に売ろうとしたのはマリさんじゃない。沢村さん――あなたよ。
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。