6
 
 
 ――……明凛。
 暗い夜の向こうで、誰かが自分の名前を呼んでいる。
 ――沢村さん?
 それが沢村の声のような気がして、明凛はふと目を開いた。
 ぼんやりとした薄闇の中、暖かな温もりが全身を包み込んでいる。
 子どもの頃、台所に立つ母親の気配を感じて目覚めたような、とても安らいだ気持ちで明凛はゆっくりと首を傾けてみた。
 ――沢村さん……。
 目の前に、一緒に暮らしている人の顔があった。片腕を明凛の首の下に入れて、心持ち身体をこちらに向けるような形で目を閉じている。
 少し首をかしげた明凛は、規則正しい寝息をたてている人の顔を、しばらく身じろぎもせずに見つめていた。
 鼻筋の通った端正な顔。厚みを帯びた形のいい唇。睫毛が頬に暗い影を落とし、枕元の淡い照明がほりの深い顔立ちに綺麗な陰影を描いている。
「…………」
 沢村さん、あなたはいつも私を綺麗だと言ってくれるけど。
 それと同じだけ、私もあなたをとても綺麗だと思っているのよ。
 このまま、いつまでも顔を見ていたいと思うくらい――
 その彼の睫毛がわずかに動いたので、明凛は慌てて伸ばしかけた指を引っ込めた。
「……明凛さん?」
 物憂げな瞬きを繰り返した沢村が、黒い瞳に驚きを宿して明凛を見下ろす。
「――ちょっ、だ、大丈夫なんすか」
 跳ね起きた彼に、覆いかぶさられるようにして見下ろされる。その顔を、やはり綺麗だと思いながら明凛は冷静に微笑んだ。
「うん。よく寝たから、だいぶ疲れもとれたみたい」
「いや、疲れって……」
 いきなり額に手があてられた。大きくて暖かなてのひらが、見えない何かを確かめるように明凛の額や頬、耳の下に触れる。
 暖かな手の感触に、すこしだけドキッとした。
 憂いを帯びた野生的な瞳と、厚くて柔らかいセクシーな唇。
 鼓動が少しずつ早くなって、身体が熱を帯びていく。そうだ、こんな風にしていつも、私はこの人に恋していることを思い知らされてしまうのだ。
「ちょっと熱いけど……熱があるわけじゃねぇのかな」
「紫凛から貧血だって言われなかった?」
 鼻先が触れ合う距離の近さに、思わず視線を逸らしながら言うと、顔に触れていた手が、ぱっといきなり離された。
「え、ああ……、まぁ、確かにそんなことは言ってましたけど」
 面喰ったような顔と誤魔化すような口調は、多分あれだ。紫凛の名前を出したことで動揺させてしまったのだ。
「あ、明凛さん。俺、本当に紫凛が東京に来てたなんて知らなくて――」
「それは、知ってる。むしろ紫凛が来ていたのを沢村さんに隠していたのは私よ。今日、私と紫凛が何をしていたか、知っているんでしょう?」
 明凛が冷静に言うと、沢村はますます困惑したような眼差しになった。
「えー、と。……隣の奥さんのことなら、何から説明していいか判んないすけど」
「……信じてるから。疑ってもないし、怒ってもない。ただ、理由は後できちんと説明してくれる?」
 本当は途中まで疑っていたし、結果として尾行なんて卑怯な真似をしてしまったんだけど。
 少し考えればその矛盾に気がついて腹を立ててもよさそうなものだが、沢村は心から安心したように表情を緩めた。
「もちろんです。そっか。……よかった」
 単純な人……。まぁ、そこがいいんだけど。
 胸の奥がほんのりと暖かくなって、明凛は起き上がろうとした彼の手に自分の手を添えた。
「……ん?」
 一瞬訝しそうになった目に、すぐに淡い優しさが浮かび、近づくにつれて暗い影が滲んでいく。
 けれど唇が触れるか触れないかの直前で、沢村は我に返ったように身を起こした。
「っ、ごめん、つい――」
「つい?」
 明凛が訝しく見上げると、彼はますます狼狽えたように、視線を逸らす。
「いや、だって……、あー、腹減ってますよね? 俺、外で何か買ってきますから」
 ああ、その気にならないようにしているというわけか。
 それは暗黙の了解で、明凛と沢村の双方で気をつけていることである。来月には長いスパンで試験が始まる。ここでミスをすれば、彼の努力も明凛の協力も全て水泡に帰し、2人の関係さえどうなるか判らない――絶対に失敗は許されないのだ。
 でも……。
「ううん、いい」
 明凛は首を横に振って、立ち上がりかけた沢村の腕に手を添えた。
 今夜はどうしてだか、収まりのつかない自分がいる。どこまでも私に気を遣い、他人行儀な沢村さん。一方で紫凛とは、まるで昔からの悪友みたいに、ぽんぽんとなんでも言い合っている。
「喉が渇いた」
「え?」
「だから喉、カラカラなんですけど」
「あ、ああ、水ね」
 多分、明凛の口調がつっけんどんだったせいだろう。少し面食らったように立ち上がった沢村が、備え付けの冷蔵庫から冷水のペットボトルを取り出してくる。
「起きられます?」
「飲ませて」
「はい?」
「起きられないから、飲ませて」
 しばらく沢村は言葉をなくしたように、ペットボトルを手にして突っ立っていた。
 さすがに少し我儘が過ぎたかな――と思った明凛が横目で見上げると、思いのほか真剣な、思いつめた目になっている。
「……沢村さん?」
「明凛さん、やっばり医者に行こう」
 は――? と思う間もなく、かがみこんだ沢村が、明凛の首の下に腕を回して抱え起こそうとした。
「そんなにひどい状況になってるなんて思わなかった。紫凛の野郎が、一晩寝てれば治るなんて言いやがるから!」
「ちょっ……違うのよ。早合点しないで。対処法としては紫凛の言う通りだから」
「でも、あんた明らかに普通じゃないだろ。とりあえず一番近い医者に連れていくから」
 ――普通じゃない?
 ちょっと紫凛の真似をしたつもりが――それだけで普通じゃない?
「沢村さん、私なら本当になんでもないから」
「無理しなくていいよ。一緒に暮らしてるんだ。あんたのことなら、大抵は判る」
 いや、悲しいくらい判ってない。
 私だって、たまには素直に甘えてデレデレしたいと思うことくらいあるんですけど。
 紫凛みたいに、後先考えずに我儘をぶつけて、なんだかんだブツブツ言うあなたに甘やかしてほしいと思うことがあるんですけど。
 しかし、抗ったところで力では敵わない。強引に抱えあげられて、身体が空に浮く不安感から咄嗟に沢村の首にしがみつく。
「こんな時間に病院なんてやってないでしょ」
「大丈夫、夜間外来のあるところを調べてるから」
「――ちょっ、あのねぇ……」
「それに、いざとなったら救急車を呼びます」
 もう――!
 首に回した腕に力をこめる。引っ張られるように顔を傾けた彼の唇に、明凛は自分から唇を押し当てた。
「………………」
 数秒、そのままの姿勢でいて、むっとした感情のままに唇を離すと、沢村は呆けたような目をしている。何が起きたのか、理解しきれていない顔だ。
「……私がお水を飲ませてっていうのが、そんなにおかしい?」
「……いや……」
「本当になんでもないの。ただ、ちょっと紫凛みたいに我儘を言ってみたかっただけ。こんな大事になるなら、二度としないから」
 拗ねたように言って唇を尖らせると、ようやく沢村が息を吐く。
「本当に本当に、大丈夫なんですか」
「本当に大丈夫。久しぶりに昼間外に出たから、熱にあてられちゃっただけ」
 あとは間違いなく睡眠不足――今日の休みを取るために、前日、明け方まで残業していたせいだろう。それとここ数日、余計な仕事を少なからず背負い込んでしまったから。
「……水、飲みます?」
「ううん。今はいい」
「なんで……紫凛の真似なんか……」
「それを私に言わせたい?」
 躊躇うような間があって、そっと唇が降りてくる。体調を気遣うようなぎこちなくて優しいキスは、けれど少しずつ、熱を帯びて深くなる。
 それ以上問い詰められないのが、ほんの少しだけ悔しかった。まるで内心嫉妬していたことを、最初から見透かされていたみたいだ。
 思えば、妹の真似をしたいと思ったのは初めてだ。ああはなりたくないと思いこそすれ、その逆はさすがになかった。でも、それはそれで正解だったのかもしれない。私には、紫凛みたいに上手に甘えるのは絶対に無理――
 再びベッドに下ろされた時、明凛は少しだけ呼吸を乱していた。2人分の重みで、ぎしりとベッドのスプリングが軋む。
「馬鹿だな」
「私にそう言うのは、相当の立場と覚悟が必要よ」
「いや、でもやっぱり馬鹿ですよ。俺にとって、明凛さんほど大切な人はいないのに……」
 それはよく判っている。今だって、こんな時間だというのに血相を変えて飛び出そうとしてくれたくらいなのだから。
 片思いだった頃――彼を探して東京中を歩き回っていた頃と比べたら、なんと贅沢な悩みだろう。それが判っていても、今なお無いものに嫉妬して求めてしまう。多分、一緒に生きている限りずっと。
「いつか、お前って呼んでくれる?」
「その前に、明凛が俺の名前を呼べるようにならなきゃ駄目でしょ」
 不意に呼び捨てにされてドキッとする。こんな風に、彼はいつでも態度や振る舞いを切り替えられるのに、それは明凛にはまだ難しい。恋の上級テクニックだ。
「……ん」
「明凛……、明凛」
 甘くて優しくて、官能を引き出すような淫猥なキス。私の名を呼ぶ、愛おしい声。
 そういえばキスしたのって何日ぶりだっけ。私も私で色々あったし、沢村さんもなんだかずっと悩んでいたようだったし……。
 頭によぎった様々な気がかりも、次第に薄らいでどうでもいいことのように思えてくる。
「沢村さん、先にシャワー……」
「後で一緒に浴びよう。明凛、少し腰あげて」
「あ……、や」
「ん……すごく潤ってる。俺も、もう我慢できない」
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。