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「はァ? なんなの、それ、一体どういう言い訳なのよ!」
「いや、だから……、――てか、なんでお前がこんなとこまでついてくるんだよ!」
 頭上で飛び交う声に、明凛は薄くまぶたを開けた。
 ここはどこだろう。暖かな布団に包まれている。場所は判らない、でも、自宅でないことだけは判る。――
「浮気してたくせに」
「してねぇよ」
「してたじゃない、白痴面のホルスタインと」
「だから誤解……、お前、相変わらず巨乳にコンプレックスもってんな」
「次言ったら殺すわよ。――誤解? そりゃ、今日のあれは誤解かもしれないけど、マンション前の喫茶店で、毎日2人きりで会ってたのはどういう訳よ」
 やめなさい、紫凛、人前で夫婦喧嘩なんてみっともない。――じゃない、相手は直斗じゃなかった。沢村さんだ。
「だからそれは……、頼まれたんだよ」
「頼まれたって、隣の奥さんに? 退屈だから一度お相手してくれないかって?」
「はっ? 違うに決まってるだろ。そんなんじゃねぇよ」
「じゃあなんなのよ。誰に、何を頼まれたら、毎日隣の奥さんと喫茶店で楽しくおしゃべりする流れになるのよ」
「……それは、別にお前に言う必要、ないだろ」
「じゃあお姉ちゃんには説明したの?」
 沢村は答えない。
「つまり烈士、あんたのやってることは、ヒモとしてサイテーってことよ!」
「お前、マジでむかつく女だな!」
 よく判らないけど、これもまた「くる」と明凛は思った。隣の奥さんのことではない。沢村と紫凛の距離の近さにだ。
 お前――烈士。これまで呼ばれたこともなければ、呼んだこともない呼称。
 ぽんぽんと交わされるテンポのいい会話も、2人の相性の良さを表しているようだ。
 はぁっと沢村が、疲れたような息を吐くのが判った。
「……まぁ、これで判ったよ。最近やたら視線を感じたのは、お前だったんだな」
「なんの話だか知らないけど、私が監視してることなんて、烈士はこれっぽっちも気がついてなかったわよ」
「うるせぇな……てか、お前、探偵か? おかしいだろ。なんで東京まで来て、いちいち俺の行動見張ってんだよ」
「そりゃ、お姉ちゃんが心配だからに決まってんじゃない」
 即座に返されたその一言で、どこか強張っていた肩の力が、ふと抜けていくのが判った。
 ――紫凛……。
 今度はその紫凛が、どこか憂鬱げなため息をついた。
「烈士にはなんてことないだろうけど、あのお堅いお姉ちゃんが男の人と2人で暮らすなんて初めてなのよ? 真面目だから色々無理してるだろうし、烈士も烈士で内にためこむタイプだし、向こうにいっても心配だったのよ、ずっと」
 そんなこと――別に――紫凛に気にしてもらわなくても……。
 不意に瞼の裏が熱くなり、明凛は、布団を強く握りしめた。
「そりゃ、烈士に限って浮気なんてするはずがないと思ったわよ。喫茶店で話してる内容もおかしかったし、ちっとも楽しそうじゃなかったし、何か事情があるんだろうとは思ってたけどさ」
 沢村は答えずに黙っている。
「でも、せめてお姉ちゃんには、それとなく知らせておこうと思ったのよ。私だったら、どんな事情があろうが自分の留守中に旦那が他の女と過ごしてるなんて許せない。――まぁ、結果的には余計なことだったのかもしれないけど」
「……余計、とは言わないけどさ……。それで明凛さんに仕事まで休ませたのは、やり過ぎだろ」
「そう? でも何か理由でもなきゃ、あの真面目人間が休みを取ったりすると思う? たまには仕事から離れる時間も、お姉ちゃんには必要だと思うけどな」
 ぎっとソファのスプリングが軋む音がした。紫凛が椅子から立ち上がったのだ。
 ようやく明凛にも、ここが何処なのか解ってきた。
 倒れてしまったホテルの、客室だ。あれからどのくらい時間が経ったのかは判らないが、倒れた自分を休ませるために、この部屋を借りたか使わせてもらっているに違いない。
「私はもう帰るけど、……どうしても気が収まらないんで、もう一言だけ言ってもいい?」
「駄目だっつっても言うんだろ。なんだよ」
「そんなに巨乳がいいなら、お姉ちゃんに豊胸手術でもしてもらったら」
「っ、は?」
 むせたように、沢村が咳き込むのが判った。そうしたいのは、布団にくるまっている明凛も同じである。
「ホルスタインの胸をチラチラみたり、自分の服をかけてあげたり――なんなの、あれ。いやらしい。男の欲望むきだしじゃないの!」
「ちが――、いや、だからさ」
 泡を食ったように言った沢村が、少し疲れたように、口調を緩めた。
「確かに気にはなったけど――誓っていやらしい意味じゃないからな。ノーブラだぞ? 白いワンピースにノーブラ。どう指摘していいかわかんねぇし、こっちが気づいてるアピールしても全然気にならないみたいだし、仕方ないから服で隠してやろうと思ったんだよ」
「いやらしい目で見てた気もするけど、まぁいいわ。で? なんで烈士が、そこまで気にしてあげる必要があるの?」
「そりゃ、あるだろ」
「だからなんでよ」
「そりゃ……」
 言葉を切った沢村が、少しの間黙りこむ。
「隣の……尾崎さんの、奥さんだからだよ」
 今度は紫凛が、虚を突かれたように黙りこんだ。
「このホテルには、尾崎さんもだけど、マンションの住人も何人か来てたんだ。嫌だろ、自分の奥さんが、……周りから、そういう目で見られたら」
 尾崎さん――ゴミ捨て場で挨拶を交わす隣室の主夫で、職業は作家だったはずだ。
 知らなかった。沢村さん、いつの間にお隣さんと、そこまで親しくなっていたんだろう。
 ――私には、あまり住人と付き合うなっていつも言うくせに……。
 明凛は何故か、胸が暖かくなるのを感じて目をつむった。
 紫凛の過剰なおせっかいも、沢村の隠し事も、全ての事情を知った今は、なんだか滑稽で愛おしい。
(嫌だろ、自分の奥さんが、……周りから、そういう目で見られたら)
 詳細は判らないが、今の一言だけで、彼を信じたのは間違いなかったと確信できた。もちろん後で、何があったのかはしっかり聞かせてもらわないといけないけれど。
「それにしても何? 姉さんが言ってたWHLって」
 扉が開く音がした後、紫凛の不審そうな声がした。
「何かの略称? 世界保険機構とか……」
 それは、WHO……。
 再び意識が薄れていくのを感じながら、明凛は胸の中で呟いた。
 WHLの略はそれじゃない。その略は、妻を、心から、愛する男の会――

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。