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「2時になるから、もうそろそろだと思うわよ」
 紫凛に肘でこづかれ、明凛は慌ててサングラスをかけ直した。
 というよりまだ信じられない。日中の昼間がこんなに暑いなんて。アスファルトからたちのぼる熱気で、今にも気を失ってしまいそうだ。
 紫凛のパラソルを、つい恨めしげな目で見てしまう。その紫凛は、隠れていた建物の影から身を乗り出さんばかりの勢いで、マンション『アフターミッドナイト』の方向を凝視している。
「とにかくすごい巨乳なの。ゲスな牛並ってところかしら。私たちって顔はイケてるけど貧乳だから、胸で浮気されると本気で傷つくわよね」
「……………」
 浮気ね。
 明凛は少し呆れて嘆息した。
 いくらなんでもそれはないだろうと思うけど。
(1週間前、たまたま2人の新居を訪ねた時に見かけたのよ。列士が牛みたいな巨乳女と2人で、いちゃいちゃしながら歩いてたのを!)
 どれだけ暇なのか、これもまたかつての恋人への執着なのか、紫凛はそれから4日間に渡り、沢村を尾行していたらしい。
 彼の行動が詳細につづられたメモを見ると、ほとんどルーティンと化した家事用務の合間を縫うようにして、午後2時から3時の1時間あまり「魅惑のホルスタイン」(注・原文ママ)と、近所の喫茶店で仲良くデートを楽しんでいたようだ。
(同じマンションから出てきて帰りも一緒なのを見ると、女はマンションの住人じゃないかしら。まさに灯台下暗しよ、お姉ちゃん!)
 紫凛は鼻息を荒くしていたが、明凛はいまひとつ、そのテンションについていけないままだった。
 ――まぁ、うちのマンションにはいろんな事情を抱えた人がいるから……。
 紫凛には説明していないが、その女性が、本当に生物学上の女性であるかどうかすら疑わしい。
 それに明凛自身も、今は別方面からマンションの人間関係のごたごたに巻き込まれて、それを沢村にはまだ打ち明けられずにいるのだ。
 ――きっと沢村さんにも何か事情があるんでしょう。私に言ってくれなかったのには腹が立つけど、いくらなんでも浮気なんてあり得ないわ。
 そんな風に思いつつ、紫凛のパラソルの影から視線を巡らせると、マンションの形ばかりのエントランスから、丁度ふたつの人影が重なり合うようにして出てくるところだった。
「あっ、出てきたわよ!」
 1人は、黒のアウターにジーンズ姿の沢村だ。際立って背が高いから、顔が影になっていてもすぐに判る。
 もう1人は、白いミニのワンピースをまとった小柄で肉感的な女性。顔を見た瞬間えっと思ったが、二度見するまでもなかった。帰宅時間が遅い明凛が、週に二度は顔を合わせる人である。
「どう? やっぱりマンションの人?」
 マンションの住人だ。そして、少なくとも男性ではない。
 軽い平手打ちでもくらったような気分で立ちすくんでいた明凛は、戸惑いながら頷いた。
「名前は忘れたけど隣の奥さんだと思う。……奥さんっていっても、未入籍だとは思うけど」
「隣の奥さん! うーわっ。くるわ。お姉ちゃんが留守の間に隣の奥さん! マジでくるわ、それ」
「まぁ……、沢村さんにも主婦同士のつきあいがあるでしょうし」
 いや、でもあの人は明らかに主婦ではない。隣家の主婦――いや、主夫は、ゴミ出しの時に顔を合わせる、ひょろりとした痩せぎすの男のはずだ。
「ちょっと、烈士の目! なにげにあのホルスタインの胸に釘付けよ。もう何回もチラ見してる。最低!」
 それは絶対にないと思ったが、つられるように沢村の視線を窺った明凛は息を引いて凍りついた。
「…………」
 見てる。
 平静を装いつつも、あれは絶対に胸の存在を気にしている。
 ――嘘でしょ。まさか、沢村さんがまさか……。
 信じたくないけど胸で浮気?
「ほら、見てごらんなさい。あの角を曲がったところにある喫茶店に2人して入っていくから」
 勝ち誇った紫凛の声で、呆然としていた明凛も現実に立ち戻る。しかし、その視界の前で、沢村と魅惑のホルスタインはすたすたと件の店の前を素通りしてしまった。
「あら? ……おかしいわね。今日に限って一体どこへ行く気かしら」
 見れば2人は、どんどんその先に歩いていく。方向からして向かっているのは地下鉄の駅のようだ。
「駅に行く気ね。――お姉ちゃん、このまま後を追うわよ!」
 どうしていいか判らない明凛の手を強引に引くと、紫凛は2人の後を追って歩き出した。
 
 
「……お姉ちゃん、昔から運動はだめだったけど、こんなに足が遅かった?」
「う、運動神経は関係ないわ。これは気温と体力の問題よ」
 明凛は恨みがましく言って、前を行く紫凛を見上げた。
 電車を乗り継いで歩くこと10分。一体ここはどこだろう。
 視界がぼやけて見えるのは、あれは都会の蜃気楼だろうか。
 ずっとデスクワークだったから、もう何年も真夏の日中に外を出歩くなんて真似をしたことがなかった。それがこれほどの苦行とは想像すらしていなかった。
 ――信じられない、夏ってこんなに暑かった? これじゃまるで、拷問じゃない。まかり間違えれば死ぬレベルじゃない。
 日差しが突き刺さる針のようだ。じりじりと肌が焼けて、もう二の腕が赤くなりかけている。
「なんか、スタイルいいんだか悪いんだかわかんない女だけど、ああいうアンバランスな身体に男は弱いのかしら。全く烈士にも呆れたわ」
 もう半分くらいどうでもよくなっている光景に、明凛は再び目を向けた。
 今、ほんの数メートル先を行く沢村の隣にいるのは、間違いなく隣家の奥さんである。
 背はかなり低い。ヒールをのぞいた身長は、150センチに満たないだろう。なのに胸のボリュームはやたらとある。腰はおどろくほどくびれていて、そこから重量感のあるヒップに続く。そして足は、どうやったらその重みが支えられるのかというほどに、細い。
 確かに紫凛の言うようにアンバランスな体型だ。そして不思議な魅力がある。顔立ちが少し子供っぽいところも含めて、いかにも男性受けしそうなタイプには見える。
「烈士の奴……よりにもよってあんな巨乳と……。お姉ちゃん、現場を押さえたら、私にまずひっぱたかしてくれる?」
「まぁ……、事情を聞いてからでも遅くはないと思うけど」
 電車を乗り継いでいる内に、明凛はそれなりに冷静さを取り戻していた。
 やはりどう考えても、これは浮気ではないと思う。
 紫凛の電話を隠していたのと同様に、何か彼なりの理由があるに違いない。
 しかし理由はどうあれ、彼がまた隠し事をしていたのは事実のようだ。あれほど約束したのに性懲りもなくまた――それが、少しだけ胸をざわつかせている。
 ほんの数メートル前では、沢村と女が、携帯画面を見ながら親しげに話している。笑う彼の横顔がひどくリラックスして見えたので、さすがにいらっとして明凛は眉を寄せていた。
 隠し事はやめてとあれだけ言ったのに、どうして判ってくれないんだろう。
 まさか私が怖いのだろうか。私は、そんなにも彼を束縛して、窮屈な思いをさせているのだろうか。
 そういえば、ここ数週間、あまり元気がないようだった。試験が近いので神経質になっているんだと思っていだが、一言くらい理由を聴いてあげても良かったのかもしれない……。
「あ……」
 その時、隣を歩く紫凛が小さく叫んで足を止めた。
「お姉ちゃん、見ちゃ駄目」
 急いで明凛の前に手をかざした紫凛だったが、すでに明凛はその光景を見てしまっていた。沢村がジャケットを脱ぎ、それを受け取った女が嬉しそうに肩に羽織っている様を。
 いつだったか、彼の部屋から出てきた臨時職員を見た時の衝撃とよく似ている。
 見えない何かに突き刺されて、足元が地面に縫い止められてしまったような感覚――
 そんな明凛の数メートル先で、沢村は再び女と肩を並べて歩き出す。彼らが吸い込まれていく建物の看板は、『HOTEL MIRANO』。
 そこではじめて、明凛は「ん?」と眉を寄せた。
 あれ? もしかしてここは――
「お姉ちゃん、本当にごめんなさい。まさかこんなことになるなんて……、断っておくけど、こんなつもりじゃなかったの」
 気づけば紫凛は足を止め、ひどく強張った顔で明凛を見つめていた。
「真っ昼間から女とホテルなんて絶対に許せない。急所に一発や二発いれても――いえ、切り落としても、許してくれるわよね?」
「紫凛、違う。これは浮気じゃない。沢村さんは多分WHLに行ったのよ!」
 一瞬にして、ここまでの筋道がはっきりと見えた。しかしその明凛の話を、紫凛はもう聞いていないようだ。
「――ちょっ、紫凛、待ちなさい!」
 急所ってどこだろう。人間の急所は上から順に、額、目、こめかみ、鼻、乳頭突起……いや、紫凛がそんな細かいことを知っているとは思えない。紫凛のいう「切り取れる」急所とは、ひとつしかない。
 いざとなったら容赦のない妹の性格を知っているだけに、明凛は顔色を変えていた。
「――紫凛……っ」
 明凛は、エントランスから自動扉を通ってホテルのロビーへ駆け込んだ。
そこでようやく紫凛の背中が見えてくる。血相を変えて入ってきた瓜二つの女2人に、フロントはおろか、その場に居合わせた客が一斉に視線を向ける。
「しお――」
 明凛の声に被さるようにして、静かなロビーに紫凛の怒声が響き渡った。
「烈士!」
 沢村は、エレベーター前で驚いたように立ちすくんでいる。その隣には、ぽかんと口を開いている魅惑のホルスタイン。
「え、――え? しお……、はっ? 明凛さん?」
 全く状況が理解できないであろう沢村に、無言で突進していく紫凛。
 もう言葉では妹を止められないと理解した明凛は、その背を追って全力で駆け出した。
「紫凛、違うのよ。待ちなさい、このホテルは――」
 不意に足元の感覚がなくなり、目の前が暗く翳った。
 しまった、まずい、この感覚は……。
「――明凛さん!」
「お姉ちゃん?」
 貧血……。
 ひどく遠くで響く2人の声を聞きながら、しゃがみこんだ明凛は急速に意識が薄れていくのを感じていた。

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。