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 例の会合の件、場所はミラノホテル、7階ルフラン。
 午後8時開始予定。


 明凛がそのメールに気づいたのは、午後1時少し過ぎ、朝から仕事に追い立てられて、ランチをとるのを忘れていたことに気がついた時だった。
 内容を一読してはっとした明凛は、急ぎ、ホテルの場所と、「ルフラン」がその7階にあるフレンチレストランだということをモバイル端末で確認した。しかし問題は山積した仕事がその時間までに終わるかどうかだ。
 そして午後7時30分、大慌てで役所を出た明凛は、車道でタクシーを拾おうと視線を彷徨わせた――その時だった。
「――お姉ちゃん」
 不意に響いた声に、少し驚いて声のした方を振り返る。
 すっかり灯りの落ちたオフィス街の薄闇の中から、見慣れたシルエットが現れた。
「……紫凛?」
「久しぶり。どうしたの? まだ8時前なのにタクシー帰り?」
 驚くほど短くなった髪。ミント色の爽やかなシャツに七分丈のパンツ。以前とはすっかり雰囲気が違ってしまった双子の妹は、ハンドバッグをくるくると振り回しながら、陽気な足取りで明凛の傍に歩み寄ってきた。
「公務員はリッチなのねぇ。それとも早く帰りたい事情でもあるのかしらー?」
 それには答えず、明凛は黙って紫凛を見つめた。
 この春渡米した妹と顔を合わせるのは、実に半年ぶりになる。
 どうやら、変わったのは雰囲気だけではないようだ。片方の目に、笑うと少しだけ以前とは違う印象が滲む。おそらくは怪我の後遺症――けれどその微細な変化は、彼女のもつ元来のなまめかしさを、いい意味で一層強めているようだった。
「直斗は?」
「秘密訓練とかで出張中。今はアラスカの方かしら。その間好きにしていいって言われたから、日本に帰ってきちゃった」
 直斗とは、紫凛の元配偶者で、航空自衛隊のパイロットである。現在特殊任務でアメリカに長期滞在中だ。
「紫凛、前も電話で話したけど、一緒に暮らしているならそろそろ正式に……」
「あっははは。それ、今のお姉ちゃんが言う? 自分だって烈士と暮らしてるけど、未入籍のままじゃない」
 得意げに切り返され、明凛は続けようとした説教の言葉を飲み込んだ。
 返す言葉もないが、そうはいっても自分とはまるで事情が違うのではないかと思う。この春、紫凛と直斗は7年に及ぶ結婚生活にピリオドを打ち、正式に離婚した。が、なぜかその後も海外赴任した直斗の家で、2人は一緒に生活し続けているのだ。親戚中が2人の動向を心配しているし、それは明凛も同じである。
「いつ日本に戻ってきたの」
「帰国したのは先月。東京に来たのは10日前くらいかな」
「そんな前から? どうして連絡してくれなかったの。今、どこに泊まってるのよ」
「連絡したらお姉ちゃんの部屋に泊めてくれた? やぁよ。烈士と3Pでもさせてくれるんならともかく」
「サン、ピー……」
 明凛がモバイル端末を取り出すと、紫凛は呆れたように片手を振った。
「ゲームゲーム、プレステ3って知らない? 相変わらず面倒くさい人ね。そんなことより、どこに行くつもりだったの? タクシーで帰宅するには早すぎる時間でしょ」
「ああ……。実は、今夜は寄る所があって」
「お、めっずらしい。基本職場と家の往復しか行動範囲のない人が。お姉ちゃんもついに、昼顔妻に目覚めちゃった?」
「……昼顔妻……」
「だからいちいち調べなくていいって! もーっ、面倒くさい。こんなのと一緒に暮らしてる烈士がほとほと気の毒になってきたわ」
 その言われようには、さすがに少しむっとした。
 そういえばこの紫凛から、烈士……なんてまだ恥ずかしくて一度も呼んだことのない明凛の同居人、沢村に電話があったのは、先月の終わりのことである。
 沢村と紫凛は以前複雑な愛憎関係にあり(危険な上司参照)、一応完全決着をみたものの、その過去はいまだ明凛と沢村の最大のタブーとなっている。
 そんな理由もあってか、沢村は紫凛からの電話を、あえて明凛に伏せていた。それでちょっとした口論になったのだ。
(まさかと思うけど、嫉妬してるんですか)
 あの日の口論を、沢村は完全に明凛の嫉妬だと思い込んでいたようだが、それは違う。
 あの頃――今もそうだが――明凛は、まだ沢村を完全に信用してはいないのだ。
 それは、愛しているとか愛されているとか、そんな低次元の話ではない。彼がまた妙な気遣いをして姿を消してしまうのではないか――という不安であり、疑いである。
 いってみれば、沢村の保護観察期間はまだ終わっていないのだ。まだ彼には監視と監督が必要だ。また、前みたいに1人で色んなことを抱え込んで逃げ出してしまわないように。
 が、そんなことを相手には望みながら、明凛も明凛で、沢村に複数の重たい秘密を持ってしまっている――
「ちょっと、何2時間ドラマの刑事みたいな険しい顔になってるのよ。そんなことより、姉さん、事件です」
「……え?」
 そのおかしな口調に、明凛は思考をとめて紫凛を見た。
「あなたのご主人、浮気してますよ」

 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。