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 ――まいったなぁ……。
 明けて月曜日。
 夕方遅く帰宅した沢村は、午後に予定していた家事をひととおり済ますと、自室でやりかけの問題集を開いた。
 しかし、文字はひとつも頭に入ってこない。頭をぐるぐると回っているのは、今日の不愉快な集まりと隣人に頼まれたやっかいなミッションのことだけだ。
(マリさん、どうも浮気してるみたいなんだ)
 いや、知るかよ。そんなこと。
(相手、歌舞伎町でも有名な悪徳ホストらしくてさ……。カモだよ、カモ。元ホストの沢村君ならわかるだろ。マリさん、カモられてるだけなんだよ)
 わかるけど、俺には基本関係ねぇし。そんなのに関わってる暇もねぇし。
(ねっ、頼むよ。沢村君。君だって明凛さんに棄てられたら生きていけないでしょ? 僕だってそうなんだ。マリさんに棄てられたら生きていけない)
 だったら小説家なんて見果てぬ夢は捨てて働けよ。マリさんとやらにキャバ嬢なんかやらせてんなよ。だいたい、今日の集まりに来てたやつらだって――
 その時、玄関の鍵を回す微かな音がした。沢村は驚いてまず時計に目を向ける。9時だ。嘘だろ。いくらなんでも早すぎる。
「――ただいま」
 扉を開けた途端、ひんやりとした硬質の声が聞こえてきた。途端に、それまで頭を占めていた不愉快さが一瞬にして消え、胸の暗い部分がほのかにふっと暖かくなる。
「……おかえり。早かったね」
 逸る気持ちを抑制しながら、ゆっくりと玄関の方に歩いていくと、前かがみになってヒールを脱いでいた明凛は、少しだけ顔をあげて沢村を見た。
「今日は新任課長の歓迎会だったの。一次会で帰らせてもらったから」
「普通に残業してるより、飲みの方が早く帰れるって、すげぇ職場」
「今、繁忙期だから。夏以降は、もう少し早く帰れるようになると思う」
 薄く笑んだ顔を見ただけで、みぞおちをいきなり殴られたような衝撃を感じた。まるで中学生のようにどきまぎしながら、沢村は明凛から視線を逸らす。
 なんて美人で可愛いんだ。一体この世に、これほど綺麗でチャーミングで、なおかつ神レベルに美しい生き物がいるのだろうか。
 最近伸ばし始めた髪が、なんかもう、天使みたいにさらさらして可愛い。額でわけていた前髪を、どういう心境の変化か眉のあたりで切りそろえているのも可愛い。
 肌は灰谷市にいた頃より透明感が増してなまめかしいし、たまにメイクもしてるしスカートも穿くし――、ちょっと待て。まさかそれ、俺以外の誰かのためなんかじゃないよな。
「沢村さん」
「えっ」
「……どうしたの? 怖い顔して」
「え、は……、ちょ、ちょっと勉強で、行き詰ってたから」
 ただ、見惚れてただけなんですが。まぁ、下心がどす黒いオーラみたいに出ていたのかもしれないけど。
「よかったら、私が見てあげましょうか」
「い、いいっす。解答見ればいいだけだし、明凛さん、どうせ仕事持ち帰ってんでしょ」
「そうだけど……。勉強のことだったら、私でも相談に乗れると思うわよ」
「本当にいいです」
 相談に乗ってもらうどころか、俺の上に乗ってほしくなる。
 まだ何か言いたげな明凛に、沢村は再度「大丈夫ですから」と繰り返した。
 同居当初のルールは、週に一度は寝室を共にする――だったが、その約束は、公務員試験が迫ってくるにつれ、ごく自然にスルーされるようになった。
 簡単にいえば、平日土日問わず、明凛が明け方まで帰ってこないのだ。仕事が忙しいと本人は言うが、勉強の邪魔をしないよう気を遣われているのが見え見えである。
 だから沢村も、極力自宅では明凛と接触しないように注意している。沢村が明凛に注意を払い過ぎると(大抵払い過ぎている)、彼女がそれを気にしてますます家に寄り付かなくなるからだ。
「じゃ……俺、部屋に戻るんで」
「ん、頑張って」
 微笑んで、そっと腕を叩かれる。その指先のひんやりとした感触にどきりとして、その場で抱きすくめてしまいたい衝動で息もできなくなる。
「そうだ。後でお茶でも持って行きましょうか?」
「いいっす。……集中してるんで、朝まで1人にさせといてください」
「そう? 遠慮なんてしなくていいのに」
 彼女が帰ってきただけで、それまで無機質だった部屋が、まるで甘い花が咲き乱れる桃源郷にでもなったかのようだ。
 大袈裟ではなく、世界が一変してしまう。実際目の前の人は、沢村の人生の何もかもを根底から変えてしまった。ある意味悪魔――この天真無垢な悪魔と出会ってしまったばかりに、恋という永遠の呪いに縛られた沢村は、天国と紙一重の無間地獄に落ちてしまったようなものなのだから。
「じゃ」
 鞄を再び持ち上げた明凛が、軽く目で会釈して沢村の前を颯爽とすり抜けていく。その刹那、ふわりと漂う彼女の香りに混じって、微かな煙草の匂いがした。
「……どういう飲み、でしたっけ?」
「え? だから新任課長の歓迎会だけど」
 一瞬にじみ出た黒いオーラを、沢村は自室に戻りながら大急ぎで飲み込んだ。そうでした。一瞬怒りで我を忘れてました。
 どこのどいつか知らないが、大切な明凛さんを副流煙の危険にさらしていたとは許せない。いますぐそいつの喉首をひっ掴んで、口の中に灰皿ごと吸った煙草をねじ込んでやりたいくらいだ。
 いや、危険は果たして副流煙だけだろうか? まさかその新任課長とやらは俺の明凛さんにお酌かなんかをさせたのでは。それだけじゃなく、肩なんかを抱いたりして――
「………………」
 馬鹿げた妄想に気づき、沢村は自己嫌悪のため息をついた。
 だめだ。多分満たされない欲望がたまりにたまって、そんなマイナス思考に走らせているに違いない。
 明凛が浮気したりセクハラされたりするキャラではないことは百も承知なのに、そんなことばかり考えて不安になったり、むかついたりしている。
 本音を言えば仕事なんて辞めさせて、ずっと家に閉じこめておきたい。四六時中俺の傍において――
(ねっ、頼むよ。沢村君。君だって明凛さんに棄てられたら生きていけないでしょ? 僕だってそうなんだ。マリさんに棄てられたら生きていけない)
「…………」
 なんのことはない。
 俺も結局、尾崎さんと同じか。
 自分の未来のために好きな女を働かせて、その生計に寄生して生きている。プライドや名誉といったたぐいのものを、あたかもそんなものを持ち合わせるのは男として狭量だといわんばかりの態度で打ち消して、まだ来ぬ未来を夢見ながら昨日と同じ毎日を送っている。
 本当は辛いし、苦しいし、嫌だ。俺もそうだし、尾崎さんだってそうだ。
 でも――だからって、プライドを選んで彼女を失うなんて考えられない。あの人と離れたら、俺だってもう生きていけない――
 
  
 自室に戻った明凛は、部屋干ししておいた洗濯物の類を片付けながら、つい先ほど胸をざわつかせた出来事を思い出していた。
(おかえり。早かったね)
 深みがあって、優しい声。帰宅して声を聴く度に思い知らされる。今日一日、どれだけこの人に会いたかったか。
 同居を始めて2ヶ月が過ぎた。最初はぎこちなかった双方の距離感もようやくいい形で落ち着いて、今は日々の暮らしのことで不協和音がたつこともない。
 本当は恋人らしく、甘えたりじゃれあったり、たわいもない会話を楽しんだりしたい。でも――残念ながら、今はまだその時ではないのだ。
 彼が内心居心地の悪さと罪悪感を覚えているこの状況を、一日も早くなんとかしなければならない。
 しかも、どうやら自分は、人の心の機微を読み解くのが苦手のようだ。一見、今の状況を受け入れているように見える沢村が、内心どんな葛藤を覚え、日々どんな感情を募らせているかなど、どうしたって判らない。
 表面上の安寧に満足していると、せっかく手に入れたものを再び失ってしまうことになりかねない。以前もそうだった。彼と結ばれた安心感から油断して、彼が抱えていた問題に気がつくことさえできずに――
 ふと小さな息を吐いた明凛は、自分のてのひらをそっと目の前に広げてみた。
 さっき、一度だけあの人の肌に触れた。
 暖かくて、硬くて、張りつめた筋肉の感触がして――表情に出さないように気をつけたけれど、胸がほのかに暖かくなって、その後、少しドキドキした。
 その手で、もっと私に触れて情熱的に抱きしめてほしい。熱を帯びた目で私を見つめて、甘い声で囁いてほしい。
 でもそれは――今は、望んではいけないことなのだ。
 その時、部屋の扉が控え目にノックされたので、明凛は急いで立ち上がった。
 扉を開けると、頭ひとつ上の高みから、少し目を細めた沢村が見下ろしている。その眼差しがいつも以上にセクシーに見えたので、内心うろたえながら――けれど平然と顔をあげて、真正面から目を合わせた。
「なに?」
「ちょっと、……相談したいことがあって」
「相談?」
 一瞬口ごもった沢村は、どこかぎこちなく視線を下げてから、続けた。
「実は、このマンションの自治会で、温泉旅行に行こうって話があるんだけど」
「温泉? ……自治会で?」
 一瞬意味を測りかねた明凛は、訝しく瞬きをした。
 自治会――的なものが、このマンションにあるのは知っていたけど、そんなしっかりした組織だったのかしら? 同じ階に誰が住んでいるかも判らないし、生活リズムもてんでばらばらそうな世帯ばかりが集まっているのに。
「そうね……。それは、沢村さんの好きにしたらいいと思うけど……」
 私に聞いてくるってことは、暗に行きたいという意思表示だろう。知らなかった。いつの間にそこまでの友人関係をマンション内で構築していたのだろうか。
 なんだか少し心配ではあるし、若干面白くない気もするけど、間違ってもそれは対等の相手に抱く感情ではない。
「まぁ、私には特に何も言うことはないんだけど、気晴らしになるなら、行ってみればいいんじゃないの?」
 そもそも、私の許可を求めるなんて何を気にしているんだろう。お金? それとも試験の時期に被るのかしら。今までだって、彼の行動に口を出したことなんて一度もないのに。
「あ、いや。俺が行きたいっつーんじゃなくて、むしろその逆」
「そうなの?」
 ますます話の意味が解らず、明凛は少し眉を寄せた。行きたくないなら、これは一体なんの相談?
「……その、ちょっと難しい人たちが揃ってっから」
「難しいって、自治会のこと?」
「まぁ、はっきり言えばそう。強引に誘われてて、断ったらちょっと……まずい雰囲気になりそうだから」
「まずい雰囲気って、どういうこと?」
「上手く言えねぇけど、住みづらくなるっつーか……」
 言いにくそうに言葉を濁す沢村を見つめながら、明凛はますます眉を寄せた。
 なんだかよく判らないけど、どうやら沢村さんは、マンションの人間関係のことで悩んでいるようだ。
 このマンションの自治会とそれに関わる人間関係。確かにちょっと特殊だろうとは思っていたが、人あしらいの上手い沢村さんなら大丈夫だろうとも思っていた。
 その沢村さんがこうも思い悩むくらいなのだから、私が気が付かなかっただけで、相当大変なことになっているのかもしれない。
 家庭のことは全部沢村さんが引き受けてくれていたから、今まで近所つきあいなんて気にしたこともなかった。でも、それではあまりに無責任――というか、私ってまるで、家庭のことは妻に丸投げの横暴亭主みたいじゃない!
 しかも内心では、妻が自分のあずかり知らないところで人間関係を広げているのを面白くないと思っているなんて……最低。
「沢村さん。よければ私が直接その人たちと話をしてくるわ。この部屋を契約しているのは曲がりなりにも私なんだし、それが筋だと思う」
「っ、いや、それはいいっす。そういう意味で相談してんじゃないんです」
「でも」
「本当にいいです。本当にそれは、大丈夫ですから」
 何故だか強い剣幕で明凛を遮った沢村は、口に出したことを後悔するようなため息をついた。
「遅くにすみません。じゃ、話はそれだけなんで」
 ――それだけって……。
 ぱたん、と目の前で扉が閉まる。
 なんだろう。漠然と、何かがかみ合わない会話だった。
 彼は本心を隠したままだったし、私もまた、彼の意図が別にあることを薄っすらと察しながら、それが掴めないままに会話を続けていたような気がする。
 迷いながら追いかけようとして、寸前で足をとめた。
 今までも何度かそうなったから判るが、彼の本心を引き出そうとして近づくと、大抵は口論になって――身体が触れて、見つめられて、後戻りできなくなる。
 こんなもやもやした気持ちまま夜を明かすくらいなら、いっそそうなってしまいたい気もするが、筆記試験が近い今、間違ってもそんなことをしている場合じゃない。
 書棚からマンション契約時の書類一式を取り出すと、明凛は1枚1枚手早く捲り始めた。
 ――ここなら沢村さんも気楽に暮らせると思っていたけど、それは私の勝手な思い込みだったのかもしれない。
 目的のものはすぐに出てきた。入居時にもらった自治会役員の連絡先一覧だ。
 ――このマンションの自治会のこと、私の方でも少し詳しく調べてみよう。
 明凛はそう気持ちを切り替えると、立ち上がって洗濯物の片付けを再開した。
 
 
 はー、失敗した……。
 明凛の部屋の扉を閉めた沢村は、嘆息してから額に手をあててうなだれた。
 本当は隣家の住人に頼まれたことを――引き受けるか否かを含めて相談してみようと思ったのだが、寸前で気が変わった。
 相談すれば、あの真面目な人のことだから、自分も関わると言い出すに違いない。どのみち、不愉快にさせるか心配させるかなのだから、いっそのこと黙っていた方が何倍もマシだ。
 が、その言い訳にうっかり自治会旅行のことを持ち出したのは失敗だった。それこそ、間違っても明凛を関わらせてはいけない問題だ。
(まぁ、私には特に何も言うことはないんだけど、気晴らしになるなら、行ってみればいいんじゃないの?)
 ――あれは……自分が行かない前提、ってことだよな。
 その瞬間、少しだけ気落ちしてしまった自分がいた。自治会で温泉旅行なんて論外の論外だが、明凛と2人でなら、そんなに悪い話でもない。
 2人で温泉なんて、想像しただけで鼻血が出そうなシチュエーションだ。彼女の返事を聞くまでの数秒、ちょっとよこしまな想像と期待をしていただけに、自分が行くなんてこれっぽっちも想定していない返事にはがっくりきた。
 ――てゆっか、俺が誰とどこに行こうが、基本、気にならないってことなんだろうな。
 これ以上考えると無駄に虚しくなりそうで、沢村はため息をついて、再び机の問題集に向き直った。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。