キャリア官僚の柏原明凛(27)と、その恋人沢村烈士(25)は、かつて明凛の出向先の地方都市で、上司部下の間柄だった。
 様々な事件を経て(『危険な上司』全9話参照)ようやく結ばれた2人だったが、明凛を守るために辞職した沢村は、現在無職。霞が関に戻った明凛と同居しながら、公務員試験に向けて勉強している。
 これは、そんな2人の同居中の物語……
  



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 ――なんだろう。気のせいかな、さっきから誰かに見られてるような。
 
「さっわむら君」
 背後から陽気な声で名前を呼ばれ、しゃがみこんでいた沢村烈士は、汗を拭って顔をあげた。
 眩しい夏の日差しのせいで、立っている人の姿はシルエットにしか見えない。
 片目をすがめた途端、逆光に立つ三つの人影から「きゃーっ」と甲高い嬌声が上がった。
「もうっ、ウインクとかなしだから!」
「反則よおお、朝からそんなセクシー顔を見せつけるなんて」
 ――なんなんだ、一体……。
 そう思いながら、沢村は草を抜く手を止めて立ち上がった。
 日曜日の朝8時。
 第一日曜日のその朝は、マンションに住む全世帯で敷地内の草抜きをするルールになっている。
「俺に、何か……」
 帽子をとり、肩にかけたタオルで額の汗を拭ってから、沢村は彼女たちに向き直った。
 彼女たち――沢村と明凛が暮らすマンション『アフターミッドナイト』の三婆。
 一言でいえば、このマンションのカーストの最上位にいる人たちだ。
「ほら、この前の会合のは、な、し」
 バチンと手を叩いて、自治会長のさくらママが言った。
 さくらママ――本名は吉田元一。
 筋肉質のごつい体格に豹柄のスリット入りワンピース。女装だというのは誰が見ても分かるが、一応生物学上の性別は男――69才。
「せっかくの親睦会なんだから、ぜひとも新人サンには参加してほしいのよ。そりゃ、奥さんの仕事が忙しいのはわかるけど」
「そう、っすね」
「奥さんだってたまには息抜きも必要よ。いいわよー、温泉。愛が深まること間違いなし」
 しなをつくった目で見下され、沢村は目を泳がせながら曖昧に頷いた。
 凶暴なサボテンみたいな睫毛に、鼻ピアス。唇はヒアルロン酸注射でぼってりと腫れ上がっている。いつみても、目を背けるしかない異相。
 身長185センチの沢村を軽々と見下ろしている時点で、もう人としての域を超えているんじゃないかと思う時がある。
 ――ひ、久々だな……。他人をこうも怖いと思ったのは。
 体格だけではなく、もう20年以上も住人カーストのトップに君臨しているだけあって、さくらママの人的迫力は半端ない。沢村だけでなく、このマンションの誰からも畏れられている存在である。
「奥様ってのはないでしょ。さくらちゃん。表札に苗字が二つ並んでるから、判りやすい同棲よ。まぁ、うちのマンションはそんなのばっかだけど」
 やや冷めた声で、さくらママの右隣に立つ副会長の紀香ママが口を挟んだ。
紀香ママ。見た目は完全に女性――しかも相当きつめの美人だが、声だけは如何ともしがたい響きがある――52歳。
「この前、帰宅時間が被ったからちらっと見たけど、随分男前な人だったわね。越してきて一度も自治会行事に顔を出さないけど、一体なんのお仕事してらっしゃるの?」
「ちょっとちょっとォ、それは詮索しないのが決まりでショ。紀香ママ」
 いきなり甲高い声で、紀香ママの背後に立っていた男?が口を開いた。
 会計の烏丸(からすま)直也。服装も性別も完全に男だが、しゃべり方と立ち振舞は女性の55才。
「だって自治会名簿にも名前載せてないのよ? それはちょっとどうなのかなって思うじゃない」
「それは住人さんの勝手。一世帯分の自治会費を払ってんだからもういいじゃない。ネ?」
 なおも鋭く切り込む紀香ママを、両手を合わせるようにして遮ると、烏丸は細いたれ目をさらに下げて沢村を見上げた。
「それにしても沢村君の彼女……。アタシも何度か見たことあるけど、結構な美人さんよネ。ウフフ、なんだか想像しただけで萌えちゃった。夜の沢村君と……」
 ――明凛さん……。
 沢村は軽い目眩を覚えて額に手をあてた。
(2人で住む部屋のことだけど、以前お世話になった知り合いに紹介してもらって、とてもいい物件を見つけたの)
 それ、絶対に龍郎さん(沢村が以前勤めていたホストクラブのオーナー)とかその辺りの連中だ。そもそも紹介してもらう相手からして間違っている。
(私が国家公務員だということも、沢村さんと結婚していないということも含めて、素性が知られても全く問題のないマンションだから。安心して引っ越してきてちょうだい)
 ――それがここか?
 一体どういう基準で選んだら、ここまでご近所さんの性別判断がややこしい所になるんだ?
 確かに俺にとっては気楽で居心地がいいとこだよ。でも――あんた……仮にも霞が関のキャリア官僚が住むとこじゃないだろうが!
 唯一の救いは、明凛の仕事が忙しすぎて、この自治会の面々と一切認識がないことだ。そしてもちろん、この先も一切かかわらせるつもりはない。
「……と、とにかく旅行のことは、家の者と相談してみます」
「あらあらヒモは辛いわねぇ。ま、うちのマンションはそんなのばっかだけど?」
 最後に、少し馬鹿にしたような眼になった紀香ママの言葉が、ぐさりと胸につきささった。
「ちょっとォ、それは言わない約束よ、紀香チャン。男って案外傷つきやすい生き物なんだから」
「ヒモにヒモっつって何が悪いのよ。私が会長になったら、業者委託している溝掃除は、全部ヒモにやらせるわよ。男のくせに女に働かせてる奴らって、私、心底むしずが走るのよね」
 沢村は嘆息して、女?たちの会話から視線を逸らした。
 ――……ヒモか。
 そりゃ、女が朝から晩まで働いて、男は日がな一日家にいるから、そう認定されてもなんの反論もできないが――それだけに、直に心臓にグサッとくる。
「じゃ、沢村君、旅行のことはよく検討してみてくれる?」
「可愛い彼女サンも一緒にネ」
「その前に、早く定職につきなさいよ」
 胸を押さえて立ちすくむ沢村の背中を、ペチペチペチと、三連続でタッチしてから三婆は去って行った。
 最後に、烏丸だけが足を止め、丸顔をくしゃっと歪めたようなウインクを寄越してくる。
 なんだろう、何か物言いたげなウインクだ。まるで、アタシだけはあんたの気持が判るわよ、みたいな……。
 とはいえ、沢村の気持が判るのは(判ってほしくもないが)、別に烏丸1人ではない。ヒモ……なんていい方は死んだってしたくないが、このマンション、月イチの草抜きに参加する実に3分の2が男性なのだ。
「沢村君、沢村君」
 その沢村の斜め後ろから、今度は囁くような声がした。振り返ると、丸眼鏡に骸骨みたいなやせぎすの長身――よく見知った隣室の住人が立っている。
 尾崎龍之介――自称、官能小説家。境遇に関して言えば、沢村とほぼ同じ。同居中の彼女は新宿あたりでキャバ嬢をやっている。たまにしか会ったことはないが、ロリ顔の、相当肉感的な女性である。
「今の、温泉旅行の話でしょ? 沢村さんとこどうするの」
「いやぁ……、さすがにちょっと」
「だよねー。うちもマリさんに話したら、そのくらい自分で断わんなさいよってビンタされちゃった。しかも往復」
 絶句する沢村に自嘲気味の苦笑を返すと、尾崎は骨みたいに痩せた肩をすくめた。世間ではヒモと呼ばれる2人の間を、どこか乾いた風が吹き抜ける。
「ぶっちゃけ僕もマリさんも、さくらママが苦手なんだよね。いい人なんだけど、まぁ、あまり関わり合いになりたくないっていうか。……ていうか、マンションの自治会で親睦旅行とかありなの?」
 それは、新参者の沢村が、すでに3年以上もここで暮らす先輩に聞いてみたいことである。
「いつも、あるわけじゃないんすか」
「ないない。初めて。噂だとさくらママが自治会長を勇退するから、最後に特別にってことらしいよ。今年はその分自治会費も上がったし、迷惑な話だよね」
「……あの人、引退するんですか」
「今、後任選びでもめてるらしいよ。どうせ紀香ママで決まりだろうけど、せめて僕らヒモの気持が判る人に代表になってほしいよね。たとえば……会計の烏丸さんとかさ」
「ああ……」
 さきほどの、顔が潰れたような微妙なウインクが頭に浮かぶ。まさかあれ、選挙運動の一環だったんじゃないだろうな。
「まぁ、別に、誰がなっても俺らには関係ないんじゃないっすか」
 どうせ、そんなに長く暮らすわけでもない。少なくとも就職が決まればすぐにでも、沢村はここを出る気でいる。
「……甘いなぁ、沢村君は。このマンションの自治会が、異様に強制力が強いのは沢村君にだって判ってるだろ」
 これだから……みたいなため息をつきながら、尾崎は病的に痩せた顔をしかめてみせた。
「住民の殆どが、夜の世界でつながってるから、ある意味面倒なくらい団結力が強いんだよ。で、僕らみたいなその世界に寄生しているヒモには肩身が狭い……。沢村君のところ、奥さんはなに? 見た感じSМクラブの女王様系……それか、店の経営に携わってる感じかな」
「……リーマンです。普通の」
 脱力しながら、沢村は答えた。 
「ああ、そうなんだ。マリさんが、沢村さんとこの奥さんはいつも明け方に帰ってきてるっていうからてっきり――。そりゃ、申し訳ない誤解だったね」
「いえ、別に」
 むしろ、本職がばれるよりよほどいい。
「いずれにしても、自治会をなめたら痛い目にあうよ。紀香ママって、過去に何があったのか男には異様に厳しくてさ――自分も男だったくせにひどいよね。マジで地獄が待ってるよ。あんな人がこのマンションのトップに立ったら」
「まぁ、そうっすね」
 そういえばさっきも、私が会長になったらとどうとか言ってたっけ。
 確かにこれ以上雑用が増えても困る。なにしろ沢村の命運を左右する試験はもう来月にまで迫っているのだ。
「次の自治会長って、いつ、どんな感じで決まるんですか」
「任期が来月いっぱいだから、来月中には決まると思うよ。選挙で公平に決めたらいいと思うんだけど、残念なことにさくらママの推薦で決まるんだ」
「なんだ。じゃ俺たちがどうこういっても、全然関係ないじゃないっすか」
 不意に今までの会話全部が不毛なものに思えてきて、沢村は思わず嘆息した。全く余計なことで時間を取られた。早く部屋にもどって今日のノルマをやってしまわなければならないというのに。
「住民の3分の2の投票があれば、自治会長の罷免も可能らしいんだけどね」
「へぇ、憲法改正並の厳しさっすね」
「まぁ、僕らは断るけど、沢村君たちは行ったほうかがいいと思うよ」
「え?」
「だから旅行。でないと、このマンションに居づらくなるんじゃない? 沢村君は、僕と違ってさくらママのお気に入りみたいだし」
 ああ――また旅行の話に戻ってたのか。
「まぁ、……明凛と相談してみます」
 なんだか嫌な話をきいてしまった。元々断りにくかったものが、今のでますます断りづらくなったような。
 明凛に相談……いや、してみるだけ時間の無駄か。このマンションの面子(そこにどんな猛獣がひそんでいるか未だ実体すら掴めない)と、親睦会で温泉旅行とかどう考えたってありえない。1人で行くならぎりぎり耐えられても、あの柏原明凛が、その輪の中に加わると思うと……
 ぶるぶるっとおぞけを振った時、ふっと、また奇妙な感覚に見舞われた。
 誰かに、じっとりとした視線で見られているような嫌な感覚。
「どうしたの、沢村君」
「あ、いや……」
 振り返っても、そこには、しゃがみこんでせっせと草引きをする沢村と同じ立場の主夫たちがいるだけだ。あと、独身世帯も同じくらいいるから、若い男たちの姿も多い。
 女といえば、指で数えられるほどしかいない。まぁ、こんな怪しいマンションに、さすがに女一人では暮らせないだろう。
 ――それにしても気のせいかな。やたら、誰かに見られているような気がするのは。
「そんなことより、沢村君。明日のこと忘れてないよね」
 尾崎の言葉で我に返った沢村は、すっかり忘れていた約束を思い出して、汗の浮いた首に手をあてた。
「ああ、そうでしたね。えーと、確かWH……」
「しぃッ!」
 突然形相を変えた尾崎が、唇に指をあてて沢村を睨みつけた。
「それ、絶対口にしちゃだめだって言ったでしょ。こういう時は、――こう!」
 尾崎は人目をはばかるように周囲を見回すと、右手の人差し指でWの文字を空に書いて、ついで小指をさっと立てた。
 ああ、……合図ね。
 口に出すより、そっちの方が目立つような気がするけど――まぁ、いいか。
「まぁ、確かに気晴らしになるでしょうが、俺、そういうのはあんまり……」
「そんなこと言わないで一度くらい顔出してよ。それに一度話を聞いちゃったらもう正式なメンバーだよ。いまさら一抜けなんて卑怯だよ」
 ――なんだ、その性質の悪い営業マンみたいな言い方は。
「いやぁ、でも、俺、今本当に忙しくて」
「みんな沢村君には期待してるんだ。若いしイケメンだし、行動力もありそうだし。それに……、これは個人的な話になるけど、ちょっと頼みたいこともあるしさ」
「俺にっすか?」
「そう。沢村君を見込んで、ぜひ!」
 尾崎の、死期が近い捨て犬みたいな顔をみると、もう何も言えなくなる。
 頼み事ってなんだろう。もう色んな意味で悪い予感しかしない――
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。