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3
「別に」
短く言って、氷室は再び視線を夜の街並みに向けた。
そして、なるほどな、と思っていた。
沢村はあながち出鱈目を言ったわけではなかったのだ。
(俺のことあんたと間違えてんのかなぁ。さっきからあちこち触られまくって、こっちも限界きそうなんですよ)
(うっかり過ちを犯す前に、あんたに迎えに来てもらった方がいいんじゃねぇかなぁと思って。あ、これはひとつ貸しにしときます)
恋に破れた?傷心の男が、身も心も千々に乱れ、潰れるくらいに酔っ払っている。そこに、馬鹿みたいに呑気な女が、1人でのこのこやってきた。
女に「上司の恋人」という肩書がなかったらどうなっていたか。いくら酔っていたとはいえ頭のいい沢村のことだ。本能的に危険を感じたからこそ、電話してきたのだろう。
――確かに貸しだな……。まぁ、もちろん何倍にもして返してはやるが。
いや、沢村のことはこの際どうでもいい。許せないのは、どこまでも隙だらけの、男というものがいまだ何一つ判っていない、脳天気で、無防備で、――無邪気という名の無神経さを隠そうともしない――日高さんだ。
「な、なんですか。さっきから」
助手席では、少しだけ身構えた成美が、怯えたような目で氷室を見ている。
「……別に」
小さく嘆息し、氷室は再び視線を窓の外に戻した。
「あの……、信じてもらえないと思いますけど」
「信じていますよ」
ややうるさげに遮ってから、氷室は再度ため息をついた。
とはいえ、これ以上彼女を引き止めてはおけない。いつもならある程度のところで抑制もできるが、今夜は無理だ。明日、大切な仕事を控えている彼女に対して、自分を制御するだけの自信はない。
「少し疲れただけで、別に怒ってるわけじゃない。……言い訳ならもういいですから、早く車を降りてください」
「……でも」
「また明日、こちらから連絡するので」
俺の身体が、今、どんな懊悩を抱えているか――もちろん気付きもしないし、想像もしていないんだろうな。この無邪気な人は。
まぁ、そうなったのは自業自得だから責任転嫁する気はないが、そのいつになく短いスカートといい、胸のラインがはっきり判るニットといい、そんなものを間近で魅せつけられた沢村が、どんな感情を抱いたか手に取るように判るだけに――
まずい。無駄な想像で余計に身体が熱くなってきた。どこまでも腹立たしいが、一体あの紅茶には、何が入っていたんだ?
「……氷室さん?」
「―――っ」
不意に成美の手が、ステアリングに乗せていた氷室の手に被さってきて、驚いた氷室は、思わずその手を振り払っていた。
「あ、ご、ごめんなさい」
「…………いえ」
一瞬傷ついた顔を、慌てて逸らした成美が、動揺したように視線を彷徨わせる。
さすがに気まずさから、氷室も視線を逸らしていた。
いくら条件反射とはいえ、事情を知らない彼女からすれば、大人気ない反応に見えただろう。
そこまで怒っているのかと驚いたろうし(実際本当に怒ってはいるが)、冷たい仕打ちにショックを受けたのかもしれない。
「あの…………」
消え入るような成美の声がした。
「本当に…………、ごめんなさい」
もういい――と遮ろうとした氷室は、そのまま言葉を飲んでいた。うつむいた成美の目が、微かに震えて潤んでいるのが分かったからだ。
手を伸ばそうとした氷室は、すぐに我に返って、その手を自分の項にあてた。
――まいったな……。
嘆息し、額に手をあててうなだれる。
おいおい、ここで涙は反則だろう。
この状況で、一体俺にどうしろっていうんだ?
4
どうしよう……。
成美は、まだ動揺が収まらないまま、滲み出した目元を急いで指で拭った。
氷室さんが些細な誤解で怒るのはいつものことだけど――今まで、こんなに冷たくされたことはなかった。
意地悪なお仕置きはいっぱいされて、それを非道いと思った時もあったけれど――今となっては、その時の氷室さんが何倍も優しく思える。
信じてもらえなかったんだろうか?
それとも、いよいよ愛想を尽かされたんだろうか。
元々両思いでいられたのが奇跡のような格差恋愛。付き合い始めても、ずっと片思いのようなものだった。
氷室の気持ちが冷めてしまったら――この関係は、跡形もなく消えてなくなる。
「あの……」
よほど車を飛び出して泣いてしまいたいと思ったが、成美は懸命に感情を抑えて、言った。
「こ、今夜は無理でも……、また、話を、聞いてください」
氷室は無言で、ステアリングに預けた腕で額を支えている。その横顔は手で半分隠されて、成美には表情すら窺えない。
「嘘は言ってないし……怒られるようなことも、していません。そ、それでも……許せないと思うなら、もう、仕方ないかもしれないですけど」
氷室から返ってくる言葉はない。
成美は胸に石を詰め込まれたような気持ちのまま、のろのろとバックを持ち上げた。
まさかこれくらいのことで、2人の間に決定的な亀裂が入るとは思ってもみなかった。
でも、そういうものかもしれない。些細なことで惹かれ合うこともあれば、些細なことで別れることもあるのかもしれない。そうして別れてしまえば、私とこの人には何もない。ただの他人より遠い関係になってしまうのだ――
成美は再び目元が潤みだすのを感じ、急いでドアに手をかけた。
「じゃあ――送ってくださってありがとうございました。お休みなさい」
「日高さん」
少し強い口調で呼び止められ、成美はびくっとしながら、恐る恐る氷室の方を振り返った。
氷室は先ほどと同じ姿勢のまま、額に手をあててうつむいている。
「……はい」
成美が、少し遅れて返事をしても、氷室はしばらくの間無言だった。
「……あのですね」
「はい」
「………………」
ドキドキする。なんだろう、このいちいち長い沈黙は。それが死刑宣告なら早くして欲しいのに。
やがて彼の唇から、長いため息が漏れるのが判った。
「僕にも、そういう日があるということですよ」
「はい……?」
そういう日?
「君が欲しくて、たまらない日です」
「……………………」
はい?
「明日は、大切な会議があるのでは?」
「はっ、はい?」
なになに、これは一体、どういう流れ?
ていうか、その前に、今氷室さんなんて言った?
わ、私が……うわーっっ、恥ずかしくて反復さえできないよ!
1人顔を熱くする成美の前で、氷室はようやく顔をあげてヘッドシートに頭を預けた。
「咄嗟とはいえ、乱暴な真似をして悪かったですね」
横顔は少しだけ疲れて見えたが、声は、いつもの優しい氷室のものに戻っている。
「君の迂闊さへの怒りはもちろんありますが、それ以上に君を慮る気持ちがあるから、今夜はこれで帰ってくださいと言っているんです。今、君を抱いたら、目茶苦茶にしてしまいそうだ」
う、うわー…………
そんなドラマみたいなセリフをさらっと普通に言われても、ど、どう返していいものやら。
でもなんか、今、胸のあたりがきゅっとなった。
上手く言えないけど――あまり目茶苦茶なのは辛いけど――、そんな風に氷室さんに大切に想われていることが、すごく嬉しい……。
「あの……」
少しの間逡巡してから、成美は思い切って顔をあげた。
「少しなら……別に……なんていうか……大丈夫ですから」
氷室の視線が、ゆっくりとこちらに向けられるのが判る。
「私なら、若いですし、体力ありますし……。も、もちろん氷室さんがよければ、ですけど」
言いながら、耳まで熱くなる。氷室の、どこか熱を帯びた声がした。
「だから?」
だから?
だ、だからって……、あれ? 結局、何が言いたいんだっけ。私も、そんな気分になりましたとか、――いやいやいや、そんなことさすがに言えないし。
「その……、あの……、だから、もう、許してくれますか?」
おずおずと顔を上げると、薄闇の中、氷室がたまりかねたように苦笑するのが判った。
「ええ」
「よかった!」
「最初からそんなに怒っていないのに」
「嘘ばっかり。目がもう、マネキンみたいになってましたよ」
「それはひどいな」
氷室が可笑しそうに笑ったので、成美もようやく安堵の笑みをこぼした。
「氷室さん」
「ん?」
「もう、……触ってもいいですか?」
「………え?」
「手……」
ひどく振り払われたことが、まだ胸に痛みとして残っている。氷室もそれを察したのか、少しためらった後「どうぞ」と左手を差し出してくれた。
こうやって手にとって間近で見ると、男の人だけあって、すごく大きい。
長くて綺麗な指も、関節は太くて、指で触れた甲は骨ばっている。
皮膚も、成美のそれと比べたら硬くて、少しだけざらっとした感触がする。
なんだかすごく愛おしくなる。この大きな手で、彼はいつも、私を守ってくれているのだ……
親指で、手のひらの感触をそっと確かめた成美は、少し身をかがめて、その指先に軽く唇をあてた。彼の指が、一瞬驚いたようにぴくっと反応する。
――好き……。
なんて、口で言えたらいいんだろうけど、ちょっと今は恥ずかしいな。
「君は、……僕をどうしたいんだ?」
「え?」
顔を上げた途端に腕を掴まれ、成美はシートに押し付けられた。
「んっ……」
有無を言わさず重なった唇の間から、氷室の舌が滑りこんでくる。
一瞬顎を引いた成美の中に、それは強引に入り込み、逃げる舌を追いかけるようにして絡めとられた。
「……ふ、ぁっ………」
何度も角度を変えられる度に、頭の芯が痺れてきて、全身から力が抜けていく。呼吸が浅くなり、心臓はもう、苦しいほどに鼓動の音を速めている。
――ひ、氷室さん……?
なんだろう、熱い。
どうしたの? まるで、いつもの氷室さんじゃないみたい……。
彼の熱と、車内に響く淫らな水音に、理性が溶けていきそうになる。が、停めた車の傍らを別の車が通り過ぎた時、成美は我に返っていた。
「だ……だめ……、んんっ」
顔を背けて逃げようとしても、顎に手を添えられてしっかりと固定される。
いつになく乱暴に成美の口中をかき乱した後、氷室は少しだけ荒い息を吐いて唇を離した。
胸で大きく息をした成美は、目の前の氷室の顔をぼうっとしながら見上げる。
「……氷室さん……」
「黙って」
囁いた氷室が、今度はそっと舌を差し入れてきた。
どこか蕩けた思考のまま、成美はおずおずとそれに応える。
ゆっくりと互いの舌を重ねあわせる。氷室の舌が唇の間を滑り、音を立てて淫猥に抜き差しされる。
「……ぁ、……っ」
肩を撫でていた氷室の手が、鎖骨をなぞって胸の膨らみを包み込む。溶けそうなほどに優しく揉まれ、甘い声が漏れそうになる。成美はこのまま――何もかも忘れて流されてしまいたくなった。
が、ここは公道で、しかも成美が学生時代から暮らすマンションの目の前である。
「……ま、待って……お願い」
精神力の全てを集中させて、成美はようやく氷室の手を押しとどめた。
これ以上は、本当にまずい。
「あ、あの……続きは私の部屋で……。ここだと、人に見られますし」
珍しくキスだけで荒い息を吐く氷室は、その呼吸を整えるようにシートに戻ると、掠れた声で呟いた。
「………そうですね。じゃあ」
が、そこまで言いかけると、自分の言葉を打ち消すように大きく息を吐く。
「いや……、そうしたいのは山々ですが、明日は大切な会議があるのではないですか」
ああ、……あれか。
「もう1時になる。いくらなんでも遅すぎる時間でしょう。名残惜しいですが、今夜は僕が我慢しますよ」
「あの……実はそれ、会議じゃないんですよ」
薄闇の中、氷室がむっと眉を寄せるのが判った。
「う、嘘じゃないです。ただ、なんて説明していいか判らなかったから。――仕事が閑散期だから、勉強のために、雪村主査と弁護士さんの協議に同席させてもらうだけなんです。私がすることは何もないんですけど、居眠りなんかしたら、それこそ雪村主査に大変な目にあわされますから」
「……………………」
あれ?
なんだろう。さっきよりますます怒りのオーラを強く感じるのは……気のせい?
「日高さん」
が、ややあって聞こえてきた氷室の声は、いつも以上に優しかった。
「今夜は、僕の部屋に来ませんか?」
「え?」
「ここで待っていますから、支度をしてきてください。明日は、僕が車で役所まで送りますよ。その方がお互い都合がいいでしょう」
「そう――確かにそうですね」
成美は目を輝かせて頷いた。平日のお泊りは、仕事に支障が出るから遠慮していたけど――まぁ、いいか。仕事が暇な時期くらい。
今夜は私も、まだ氷室さんと離れたくない……。
5
「氷室さん、おまたせしました!」
大きなバックを抱えて助手席に乗り込んだ成美を、氷室は唇に微笑を浮かべて見下ろした。
「たった一晩なのに、随分沢山持ってきたんですね」
「着替えとか……」
バックを後部シートに置くと、成美はひとつ息をついて、シートベルトに手をかけた。
「あと、この前買ったアロマキャンドルも持ってきたんです。ほら、氷室さんって不眠症っぽいじゃないですか。ハーブの香りって、ぐっすり眠れるそうですよ?」
「なるほど」
「こ、今夜は、睡眠時間がいつもより短めになりそうだから……できるだけ熟睡して欲しくて」
少し恥ずかしそうに言う成美を横目で見てから、氷室は車のエンジンを入れた。
短め、ね。
君が思う程度じゃ、終わりそうもないんだがな。
まぁ、いいか。雪村さんのために僕を後回しにしようした――いや、今夜の何もかもを含めて、日高さんには少し厳しいお仕置きが必要だ。
「ねぇ、氷室さん。ラベンダーとカモミール、どっちが好きですか?」
「どっちでも」
氷室は優しく微笑むと、夜の街に車を発進させた。
(終)
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