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１
その紅茶を一口飲んだ途端、氷室は微かに眉を寄せた。
「あれ？ やっぱり判ります？」
トレーを持ったまま何故か氷室の隣に座り、じっと様子を見ていた倉田真帆が、アーモンド型の目をキラキラさせて氷室の顔をのぞきこむ。
灰谷市屈指の高級住宅街にある倉田邸。
世帯主が地元の名士で市会議員をやっているだけあり、豪邸揃いの地区にあって、一際格式が感じられる純日本家屋だ。
夕陽が差し込むその一階の応接室で、氷室は真帆と２人きりだった。
「何か、入れました？」
「はい」
上目遣いに氷室を見たまま、にっこりと真帆は頷く。
「あ、でも、危険なものじゃないですよ。お父さんが愛用……いえいえ、副作用がないのは実証済ですから。しかも効果バツグン、みたいな？」
氷室は黙って微笑すると、ティーカップをソーサに置いた。
「結局、何を混ぜたんですか」
「綺麗な言葉でいうと、媚薬です」
全く悪びれずに真帆。
「それは、犯罪なのではないですか」
「とも言いますね」
いっそう目を輝かせる真帆から、氷室は嘆息を飲み込んで目を逸らした。
今日の５時前、真帆の父親である倉田議員から、議会対応資料を至急自宅に届けてくれと氷室の携帯に電話があった。
だから残業を諦めてここまで来たが、肝心の議員は留守。「父ならすぐに帰りますから」と言われて客間に上がらされたものの、３０分待っても未だ帰宅する気配はない。
――やられたな。そもそも最初の電話からして、娘に頼まれたことだったのかもしれない。
氷室は唇だけで微笑して、カップを再び持ち上げると、それを一気に飲み干した。
「きゃーっ、氷室さんったら、いい飲みっぷり」
「ごちそうさまでした」
カップを置いて、氷室はすっくと立ち上がった。
「え？ 帰っちゃうんですか？」
「ええ。資料は置いて帰ります。申し訳ないのですが、まだ仕事が残っているので」
「……なんともありません？」
「ないですね。――生憎僕は、この手のものが効かない体質なんですよ」
「ええーーーっっ」
無邪気にショックを受ける真帆を尻目に、氷室はさっさと倉田邸を辞去した。
――眠れない。
いつも眠れないが、そういう意味でなく眠れない。
氷室は寝返りを打ってから、髪をかきあげて半身を起こした。
身体の芯が鈍い熱を帯びている。不快というほどでもなく、我慢できないというほどでもないが、微細な感覚の変化が、自身の自律神経に微妙な影を落としているようだ。
癪に障ったのもあったが、大したものではないと高をくくって、全部飲み干したのが間違いだったのかもしれない。
無意識にベッドサイドテーブルの上の携帯を取り上げると、メールの着信が入っている。
開くとそれはスパムメールで、その一つ前に、日高成美からのメールがあった。
内容は既に確認済だが、なんとなく指が赴くままに、そのメールを開いてみる。
今夜は残業で遅くなります。
明日は絶対に居眠りできない大切な会議があるので、
早く切り上げて帰ろうとは思ってるんですけど……。
明日の夜は、予定どおり氷室さんのお部屋におじゃましますね。
では！
時刻は今日の８時前。残業を終えた氷室が退庁する直前だった。
日高成美が勤務する総務局行政管理課はまだ灯りがついていて、顔を見て帰ろうかとも思ったが、やめた。
同じ階で仕事をしていても、今日のように１日顔をあわせない日もある。そういう時は、無理に偶然を装わないのが双方の約束事だ。
役所は狭く、人の噂は恐ろしいほど一気に広まる。氷室は役所の中では目立つ存在だし、一時ではあるが日高成美と噂になっていたこともある。偶然を装った故意など、少し敏い者には簡単に見抜かれてしまうだろう。
それは、あまりいいことではない。自分ではなく、まだ未来のある彼女にとって。
それにしても絶対に居眠りできない大切な会議とはなんだろう。実に妙な言い回しだ。そもそもどんな会議であっても居眠りするなど論外だが。
電話でもしてみるか、と一瞬思ったが、今の時刻を確認して、思いとどまった。
午前０時少し過ぎ。いくらなんでももう就寝しているだろうし、つきあっている相手にするにしても非常識な時間である。
それでも、会いたいと一言告げれば、タクシーにでも乗って来てくれるだろうが……
（明日は絶対に居眠りできない大切な会議があるので）
――無理だな。
今夜のコンディションで、ゆっくり眠らせてあげる自信は、ゼロだ。
無意識に渇望している相手を思い出してしまったおかげで、ますます疼きにも似た熱が高まりを増した気がする。
――仕方ない。もう一度、シャワーでも浴びるか。
嘆息しながらベッドから降りた時、携帯の着信音が静かな室内に鳴り響いた。
「…………？」
ディスプレイに示された文字は「イプセン」。
つまり日高成美である。
こんな時間に彼女からかけてくることはまずない。いや、一度だけあるにはあったが――それは例外中の例外というより二度とあってはならないことが原因で―――通常では、まず考えられない。
何か非常事態でも起きたのかと、氷室は微かな焦燥を感じながら携帯を耳に当てた。
「日高さん？」
「あっれー、成美じゃねぇんだ。２人の時でもまだそんな他人行儀な呼び方してんですか」
「…………………………」
例外中の例外で、二度とあってはならないことがまた起きた。
背後のざわざわとした喧騒の中、どこか箍の外れたような沢村烈士の声は続く。
「いや、今彼女と２人なんですけどね？ もう、手がつけられないくらい酔っ払っちゃって。俺のことあんたと間違えてんのかなぁ、さっきからあちこち触られまくって、こっちも限界きそうなんですよ」
「…………ほう」
そこが飲み屋だということは、拾われた周囲の音から説明されるまでもない。
「うっかり過ちを犯す前に、あんたに迎えに来てもらった方がいいんじゃねぇかなぁと思って。あ、これはひとつ貸しにしときます。もちろんいつか倍にして返してもらいますけど」
「ちょっ、――沢村さん？ 何、人の携帯で勝手に話してるんですかっ」
慌てた成美の声が、そこに初めて被さった。
「はい。これ、今夜つきあってもらったお礼」
「――は？」
沢村の声が遠くなり、逆に成美の不審に満ちた声が近くなる。
氷室は黙って、耳に入ってくる音全てを拾い続けていた。
「ちょっと……ちょっと待って下さいよ。この相手、誰なんですか……」
成美の声が、恐ろしくトーンダウンして強張っている。
「出てみりゃいいじゃん」
「ちょっと……出てみりゃいいじゃんって……き、切っても、いいですよね？」
「いいのかなぁ、それやっちゃったら、余計怒りに火がつくんじゃねぇのかなぁ」
「………………」
ざわめくような喧騒が不意に小さくなった。おそらく携帯の集音部分を手で塞いだのだろう。
「まさか、ち、ち、ち、違いますよね？」
囁くような成美の声。
「違いますよね？ 違うって言ってください、お願いですから！」
「……てか、そこまで蒼白になってガクガク震える？ 一体お前と氷室さんってどういう関係なの？」
「ふ、ふふ、ふ、普通の……いや、普通でもないですけど、……とにかく…………こ、ここはひとまず、に、逃げた方が」
「逃げるってどこに逃げんだよ。てか、いちいち反応が大げさすぎるだろ」
「何も知らないんですよ、沢村さんは！」
ああ、なるほどな。２人ともこっちに声が聞こえないと思っているのか。
「とにかく出ろよ。そこまで待たされたら、俺が氷室さんでもちょっと切れるぞ」
「……覚えててくださいよ」
恨みがましい声がして、喧騒が再び戻ってくる。
「迎えに行きますよ」
成美が深呼吸する気配がしたので、それを遮るように氷室は言った。
「え、っ、っあ……？」
喉を締めあげられた鳥みたいな成美の声。
「ひ、ひひ、氷室さん、これには、その、色々わけが」
目を細め、氷室は唇だけで微笑した。
「場所の見当はつきますから、店の前で待っていてください。そうですね、２０分もあれば着くと思います。こんな遅い時間まで、残業ご苦労様でした」
２
「あの……今夜は、本当に………」
相当怒っている――と覚悟はしていたものの、氷室の想定以上の冷たい態度に、成美はそう言ったきり、言葉を繋ぐことができないでいた。
成美を迎えに来てくれた氷室は、最初から最後まで無言だった。――車を路肩につけた時から、成美の住むマンションの前でその車を停めた時まで、一言も喋らず、成美を見もしなかった。
運転は終始淡々としていて、いつものことながら所作や表情から特段の感情は読み取れない。
が、それは同時に、彼が最大級に怒っている証でもある。
「……聞いてくれますか？」
車が停まっても、そのまま降りるわけにもいかず、成美はおずおずと口を開いた。
「まず残業は――本当です」
氷室は無言でステアリングに腕を乗せている。
正直言えば、心臓が停まりそうなくらいに怖い。が、誤解は早い内に解いておかなければ後々大変なことになる。成美は再度深呼吸して言葉を継いだ。
「そ、その途中でですね。いきなり藤家局長が――今から有志で飲みに行かないかと言って来られて……、その、か、柏原補佐が断りきれずに同行することになったんです。そしたら、何故か雪村さんが」
自分たちも行きます！ と言って、いきなり成美の腕を掴んで手を上げさせたのだ。
はァ？と思ったが、決死隊みたいな雪村の恐ろしすぎる横顔に反論する勇気はとてもなかった。
「そんなこんなで、局長と課長と補佐と……雪村さんと私と、後総務からも何人か来て、８人くらいで飲みに行くことになったんですけど」
二次会として連れて行かれた店に、偶然にも沢村烈士が、よりにもよって女連れで現れた。
激しく動揺する沢村に対し、全く意に介さない――どころか存在にすら気をとめない柏原補佐。
やけっぱちみたいに飲み屋の女の子とはしゃぐ沢村を尻目に、柏原補佐は、挨拶程度に乾杯を済ますとさっさと帰宅してしまった。
その後沢村は、１人カウンターの片隅でとんでもないピッチで飲み続け――それがあまりにも気の毒すぎたので、散会した後に、事情を訊いてみようと成美１人が店に戻ってみたのだ。
「そ、その親切を仇で返されたようなものなんですよ。せっかく私が、明日補佐に言い訳してあげようと思ってたのに！」
「………………」
氷室の冷めた目が、初めてゆっくりと成美に向けられた。
「な、なんですか？」
なんだかその目……、すごく馬鹿にされたような気が……するん、ですけど。
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