「あっははは、いやもう、あの時の叔母さんの顔ときたら。君も気をきかせて、写真くらい撮ってくれたらよかったのに!」
 撮れるわけがないでしょう。
 一人膝を叩いて笑う冷泉を、沓子は冷めた目で見つめた。
 都内ホテルの最上階にあるカクテルバー。ここは冷泉の友人がオーナーをしており、冷泉がお忍びデートによく利用する店である。
 人目につきにくい――というより、外界から完全に遮断された特別シートに案内されると、冷泉は、我慢も限界とばかりに声をあげて笑い出した。もちろん、沓子は全く笑えない。
「今日は遠慮せずになんでも頼んでくれ。悪かったね。叔母さんへのちょっとした意趣返しに君を利用してしまって」
 本当に、なんてはた迷惑な男だろう――
 と思いながら「一杯だけ飲んだら帰ります」と、沓子は冷ややかに返事をした。
 そこでようやく沓子の様子に気づいたのか、冷泉が、目に笑いの余韻を残したままでこちらを見る。
「なんだ、もっと火みたいにくってかかられると思ったのに、案外大人しいんだな」
「疲れたんです。もう放っておいてください」
 つまり、私が怒ると予測できる程度には、とんでもないことに巻き込んでくれたという自覚はあるわけだ。
 まぁ、いいか。どうせ二度と会うことのない人たちだ。これで完全に、ライフガーディアンズとは縁が切れた。もう――永遠に会うことはない。
「乾杯しよう」
 やがて運ばれてきたカクテルグラスを持ち上げて、陽気な調子で冷泉が言った。
 沓子はあてつけがましく双方の喪服を見てから、口角だけをわずかに上げる。
「なにに?」
「君の、メンタルに」
 全く悪びれずに言うと、冷泉は楽し気に目を細めた。
「全く今日はすさまじかった。女同士というのは面白いものだね。あれが僕だったら泣くかわめくか逃げ出していたよ」
「いつから聞いてらしたんですか」
「いつだったかな……。雅美さんは心の広い人なのよ。くらいからかな」
 相当最初じゃないですか。それ。
 秘書を従えた喪服姿の社長が、女同士の陰湿なやりとりを外から耳をそばだてて立ち聞きしていたなんて、想像しただけで馬鹿馬鹿しい図だ。
「……自業自得ですから」
 甘いカクテルを一気に飲み干してから、ぽつりと沓子は呟いた。
「え?」
「あなたが私にそう言ったんじゃないですか。それから私、自分のしでかしたことの責任は自分でとろうと決めたんです」
 冷泉が、きょとんとした顔で瞬きしている。沓子もまた自分の思わぬ剣幕に戸惑って、それを誤魔化すように同じカクテルをオーダーした。
「泣くもわめくも、もうどうでもいいっていうか……。だいたいあの程度のことで今さら泣いていい年ですか? 私」
「僕はそれを、許可する立場ではないからね」
「当たり前です。私はあなたに許可を求めたのではなく、あなたの認識の間違いを指摘したんです。帰国子女だと開き直る前に、もっと日本語を勉強してください」
 冷泉は言葉もなく、外国人のように両腕を広げて肩をすくめた。
 沓子は視線を窓に転じた。窓辺を飾るブロンズ色の照明。一面ガラス張りの窓からは、東京の夜景が一望できる。水晶塔のような深いブルーの光を抱いたスカイツリー。
 この景色が、全て自分のためにあると勘違いしていた時期もあった。あの頃――自分の一番いい時は、もう終わってしまったのだ。永遠に過ぎ去って、もう、二度と戻ってこない。
 それでも、私は絶対に後悔なんかしない。
 沓子はきっとまなじりを上げると、再び冷泉に向き直った。
「で、あれから修二君に会いました?」
「あいにく、お互いに色々あってね。鷹司から聞いていないかな」
「もう一切関わらないことにしたので、聞いてません。つまり会ってないんですね。ま、それはそれで白鳥はほっとしてると思いますよ。週末は2人いつも一緒みたいですし」
 それには、しばしの沈黙が返された。
「――君は……僕の一番つらいところを、結構平気でついてくるね」
「お互いさまだと言っておきます。ていうか、そもそも私、根底が理解できないんですけど。なにがそんなに嫌なんですか。それとも救いようのないブラコンですか?」
 冷泉は黙り、表情をなくした瞳が無言でカクテルグラスを見つめている。
「脩二君は、どうしたってあなたが好きなんですよ。奥さんできたくらいで、あっさりあなたを棄てたりはしません。それくらい、判っておいででしょう」
 黙られると、余計に嗜虐的な気分になる。沓子は言い過ぎた自分に気づき、気まずく眉を寄せてグラスを持ち上げた。
「僕は、一番でいたいんだ」
 ややあって、呟くような冷泉の声がした。
「鷹司が僕を大切に想ってくれていることは知っているし、白い鳥さんが気に入らないわけでもない。――でも、……それでも一番でいたいんだ」
 何かが胸の奥で、はかなく微かな音をたてた。壊れたピアノの鍵盤をたわむれに叩いた途端、思わぬ音が出たように。
「本当を言えば、相手は誰でもいいのかもしれない。僕はこの世界の誰かの、誰にも代えがたいただ一人の存在でいたいんだ。そう思うのは、我儘だろうか」
「…………」
(僕は、一番でいたいんだ)
(この世界の誰かの、誰にも代えがたいただ一人の存在でいたいんだ)
 そんなの、無理に決まってる。
 そんなの、夢の中でしか起こり得ない奇跡だ。考えたこともなければ、求めたこともない。
 早くに両親を亡くし、親戚の家を転々としてきた沓子には、それが当たり前の感覚だった。
 けれど冷泉は沓子とは違う。裕福な両親に大切に育てられ、冷泉一族のプリンスとして誰からも愛されてきた人のはずだ。
 ――もしかして……。
 ふと不思議な気持ちに囚われて、沓子は冷泉を見つめていた。
 もしかしてこの人も、誰の愛にも満たされることなくこの年まで生きてきたのだろうか。
「我儘です」
 それでも次の刹那、沓子はきっぱりと言い切っていた。
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。