「さっきから黙って聞いてれば、いい年した大人が何言ってんですか。だいたい他人が自分のために生きてると思ったら大間違いです。どれだけ親しくても、脩二君の人生の中では、しょせんあなたは脇役なんですよ。通りすがりの脇役A」
「いや、いくらなんでも脇役Aはないだろう」
「その程度に思っていれば楽だって話ですよ。どうせいつか――別れるんです。親だって、兄弟だって、恋人だってずっと一緒にはいられない」
 なおも口を開きかけた冷泉が、ふとその表情を止める。唇を軽く噛んでから、沓子は続けた。
「もし、それでも、奇跡みたいに誰かの一番になれたとしても」
 どんな恋人同士にも、そんな時は一度や二度は訪れるのかもしれないけれど。
「そんなの、人生の、ほんの束の間の一瞬ですよ」
 やがて儚く消えていくのだ。思い出さえも、やがて薄れて消えていく。
 視界の端で、冷泉の手が、そっとグラスを置くのが見えた。
「きみは……真正のドSだね」
「はい?」
 咄嗟に意味が判らず、沓子は思い切り顔をしかめる。
「人にも厳しいが自分にも手厳しいということだよ。つまりМとも言いうるね。さて……、一体どちらが正解だろう」
 指を顎にあて、真剣に考え込む冷泉から、沓子はため息をついて顔を背けた。
 忘れていた。この男はこういう人だった。彼の言葉を自分の人生に置き換えて、真剣に答えてしまったのが馬鹿みたいだ。
「どっちでもお好きなように想像なさってください。じゃ、私はそろそろ帰ります」
 スツールを降りようとした途端、ひんやりとした体温に手首をとられた。驚いて顔をあげると、スツールの傍らに手をかけた冷泉とカウンターの間に挟まれている。
「まいったな、欲情してきた」
 囁くような声だった。その声の暗さと思わぬ近さに、咄嗟に身体が動かなくなる。
「きっと、喪服とアルコールのせいだね」
 その意味を考える前に、影が近づいてきて唇が重なった。
 周囲の音が消え、代わりに微かな耳鳴りが聞こえた。頭の芯から背筋にかけて深く痺れるような感覚に見舞われ、足元がくらくらする。
 何をされているのか判らなかった。キスってこんなだったっけ。こんなに深くて――官能的で、何も考えられなくなるものだっけ。
 膝から力が抜けた時、腰に腕が回され、そっと胸元に抱き寄せられた。耳朶に微かな吐息がかかる。
「……おいおい、嘘だろ?」
 動悸の速さが自分のものではないようだ。どうして足に力が入らないんだろう。どうしてこの腕を振りほどけないんだろう。何か言い返さないと――自分のペースに戻さないと――けれどどうしてだか、頭が痺れたようになって、うつむいた顔さえ上げられない。 
 耳に、そっと唇が触れた。びくっと身体を震せるとさらに深く抱き寄せられる。
「部屋に行く?」
「ちょ……、」
 耳朶に熱っぽく唇をあてられ、沓子はしどけなく身をよじらせた。
「それとも僕のマンションに行こうか」
 唇は耳の下に滑り、背中のくぼみを慣れた風に指が撫でる。発熱したかと思うほどに全身が熱くなり、思考が鈍く霞みだした。
 なに? なんなの? どうしてこんな風になっちゃうの? 私、この人のこと好きだったっけ。いや、これっぽっちもそんな感情はないはずだ。
 最後の気力と理性を振り絞って、沓子は自分を包む身体を押し戻した。
「いきま……せんっ!」
 意表をつかれたような眼になったものの、冷泉は逆らわずに両手を広げて、沓子の身体を解放した。
「なんだ、てっきり落ちたと思ったのに」
「そんな馬鹿なことあるわけないじゃないですか」
 自分の呼吸が乱れている。まだ収まらない動悸をもてあましながら、沓子は取り繕うように席について、残りのカクテルを飲み干した。
 脳内を駆け巡る嵐のような何かが去って、ようやく冷静さが戻ってくる。
「何考えてんですか、今日はあなたの叔父さんのお葬式なんですよ」
「それが?」
 同じようにスツールに座り直した冷泉が、ひどく冷めた声で言って、グラスを持ち上げた。
「それがって、……あなたの身内が亡くなったんですよ?」 
「君にとっては恋人だった男だろう。君も君で、もう心の整理はつけてきたような顔をしているが」
 さすがに少しむっとして沓子は眉宇に力を入れた。
「あなたに、私の気持ちをどうこう推察されたくはありません」
「別にしているつもりはないよ。そしてする気もない。人はいつか順番に死んでいくんだ。もちろん僕も君も例外じゃないし、そもそも例外なんてどこにもない」
 足を組み直した冷泉の目は、ここではない別の場所を見ているようでもあった。
「その瞬間を、それが他人だろうが自分だろうが、どう過ごすのかは僕の勝手だ。誰にも干渉されたくないし、また、するつもりもないね」
 沓子は黙って、横目で冷泉を窺った。ひどく虚無的な物言いが、それまでの彼の半生や死生観を物語っているような気がした。
 もしかして似ているのかもしれない。
 私とこの人は、誰も見ることのない深いところで、よく似ているのかもしれない――
「ま、僕は、こういう日ほど人肌が恋しくなるけどね」
 不意にのぞきこむように見つめられ、ドキッとする。冷然は、唇の端だけを上げて、おかしそうに笑った。
「正直になってごらん。今、僕と寝てもいいと思ったろう」
「はっ、何言ってんですか。これっぽっちも思いませんよ」
 思わず逃げるように背を反らすと、その分冷泉が身を寄せてきた。
「もしかして君、叔父さんとそんなに寝ていない?」
「は、はいっ?」
「キスの経験も、そんなにはないようだ。まぁ、叔父さんにとって、君は大切な娘みたいなものだったのかな」
 みるみる頬が熱くなる。動揺が完全に顔に出る前に、沓子はさっと立ち上がった。
「知りませんし、言いません。私、失礼いたします。今夜はどちらかと言えば、1人で飲みたい気分なので」
「もちろん止めない。――今夜はね。でも、いつか、僕が君の秘密を暴くよ」
 ひくっと唇の端が震えたが、沓子はつとめて冷静に冷泉の挑発的な笑顔を見下ろした。
「その前に、ぜひともご自身のかたをつけてくださいとだけ言っておきます。できれば次は、あなたの弟さんのおめでたい席でお会いしたいので」
 冷泉は眉だけを面白そうに上げて、肩をすくめる。
 沓子は冷ややかに一礼すると、きぴすを返して歩き出した。

 
 
 
 
 
                                        (終)
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。