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「おやおや。綺麗なご婦人方がこぞって消えられたと思ったら、こんな場所でおそろいでしたか」
いかにも驚いた顔でそこに立っていたのは冷泉だった。背後には秘書課長の黒岩を従えている。
もちろん2人とも漆黒のスーツ姿で、それは色素の淡い冷泉の容貌をいっそう美しく引き立てていた。
「みなさん。今日は朝からお疲れ様でした。僕も、丁度お茶が飲みたいと思っていたところだったんですよ。――白山さん、少しの間、車を待たせておいてくれないか」
「かしこまりました」
全く違う名前を呼ばれたのに、すでに慣れているのか、黒岩はうやうやしくお辞儀して、その場を去る。
冷泉は優雅に微笑むと、奇妙な緊張に包まれた室内を、透き通るようなきれいな眼で一瞥した。
その目は、当然のように、片隅に座る沓子の前で止められる。
「やぁ、柳さん」
「お久しぶりです。冷泉社長」
沓子はにこやかに微笑むと、ようやく血の通いだした手でハンカチを取り出し、化粧崩れでも押さえるような手早さで、頬を濡らす水滴をぬぐった。
ブスブス音を立てて停まろうとしていた肉体のエンジンが、いきなり勢いよくかかり始めたのが不思議だった。
おそらくそれは、敵対心とプライドだ。どうしてだかこの男の前でだけは、死んだって惨めな姿を見せたくないという意地。
立ち上がろうとした沓子だが、その前に冷泉が歩み寄ってきた。2人を取り巻くなんともいえない気まずい沈黙は、まるでイジメの最中に先生に踏み込まれてしまった学級内のようだ。
――なんの真似?
と思いながらも、沓子は微笑み、自分の対面に腰を下ろした冷泉を見上げた。
「僕にもお茶をいただけないかな」
「こんなものが社長のお口にあうかどうか」
「僕は、出がらしと玉露の区別もつかない男だよ。第一その言い方は、この祭儀場の人に失礼じゃないかな」
沓子は用心深く――口元だけは微笑いながら――冷泉を見つめた。
まさか、こんな場所にまで、嫌味を言いにやってきたわけではあるまい。
もしかして、同情されている? それとも、ヒーローよろしく助けるつもりで現れた? だとしたら、今度は私がお茶をぶっかけてやりたい気分だ。はっきり言ってただの迷惑。冷泉がこんなくだらない思考の持ち主だったのかと思うと、無性に腹が立ってくる。
「どうぞ」
沓子が差し出した湯飲みを受け取ると、冷泉は微かに笑んで、それを綺麗な唇につけた。そしてすぐに湯飲みを置き、今度は沓子が置いた急須を取る。
「おかわりでしょうか」
「いや」
新たな湯飲みに手ずから茶を注いだ冷泉は、それを沓子の前に差し出した。
「君のお茶がないと思って」
針が落ちても響くかと思うくらい、周囲は静まり返っている。
固まる沓子の前で、冷泉は目を細くして微笑んだ。
「君らしくもない慌てぶりだね。お茶は、頭から飲むものではないよ」
――本当にこれは、なんの真似?
本気でヒーローぶって、私を助けてでもいるつもり?
冗談じゃない。そんな男の自己満足みたいな優しさ、どんな状況であっても、死んだってお断りだ。
「総一郎さん」
おそろしく気まずい空気を破ったのは、雅美の優し気な声だった。
「なんでしょう。雅美叔母さん」
冷泉もまた、負けないくらいの優しい声でそれに応える。
「総一郎さん、私はあなたのことを、子供の頃からよく知っていますよ。夫は人の気持ちが判らないやつだなどと言っていましたけど、あなたほど人の気持ちに聡い子はそうはいません」
「……それで?」
「あなたはそれを、某弱無人なふるまいで、意図的に隠していらっしゃるのでしょう?」
「どう答えていいか判りませんが、そんな風に思っていただけて光栄です」
「――なんのつもり?」
それが今の状況を言うのは明らかで、当然のことながら雅美もまた、冷泉が沓子を助けにきたと思っているようだった。
2人の優しくも不気味な眼差しが空で重なり、息をするのも憚られるような空気が室内に満ちる。
一方で、なんのつもり、と言いたいのは、沓子もまた同じだった。
正直に言えば、冷泉には失望した。こんな余計な――ロマンス小説の気障なヒーローみたいな、下世話なおせっかいをするような男だとは思ってもみなかった。
むしろ沓子は、その真逆にいて、異性や恋愛に一切心乱されないような超然とした彼のふるまいに、唯一好感を抱いていたのだ――
しかし冷泉は、女たちの交錯する感情を読んでいるのか、いないのか、実に楽しそうに微笑んだ。
「叔母さん、僕は叔母さんが好きですよ」
そう言われた雅美が、何を言っているの、とばかりに訝しく眉を寄せる。
「実は幼い頃から、あなたは僕の憧れの人でした。本当ですよ。あなたが叔父さんと別居していると聞いてからは、何度、あなたを奪おうとしたかしれません」
ぶほっと、雅美が吹き出した。いや、吹き出したのは、なにも雅美だけではない。あちこちから茶にむせる音と、空咳と、背中を叩きあう音が聞こえる。
「まっ、まぁ……」
「れ、冷泉社長、一体なんのお戯れですの」
「いまさら僕の想いに気づいていらっしゃらないとは、よもやおっしゃったりしませんね。尤もこういったことは、想いが通じ合う男女にしかわからないことかもしれませんが」
「――総一郎さん、」
目を白黒させるという慣用句がまさにぴったりの体で、雅美が咳払いをしながら口を開くのを、遮るようにして冷泉は続けた。
「なので僕ははこの人が憎い。叔母さんを苦しめたこの人にどうにかして復讐できないかと、最近は日夜そればかり考えていたのです」
――私?
沓子はぎょっとしたが、あまりにあからさまなものいいに、もはや誰も何も言えない空気である。
すでに還暦を超えた雅美夫人。しかも冷泉とは社内で激しく対立する立場である。もちろん冷泉の冗談だと、皆内心では判っているのだが、もしや……、でもまさか……、みたいな空気感が、徐々に広がっているのだけはわかる。
「それで考えました。ぼくが伯母さんに代わって、この人に復讐すればいいのだと」
――……はい?
固まる沓子を見降ろし、冷泉は生真面目に眉を寄せた。
「つまり僕が、この人を弄んで捨てるんです。叔母さんの復讐ですよ。さぁ行こうか。今夜も君を存分に弄ばせてもらうよ」
死のような静寂の中、冷泉は優雅に立ち上って一礼すると、沓子の手を引くようにして歩き出した。
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