祭儀場の親族控室には、長机が二列になって並べられ、そこにずらりと、喪服姿の女たちが座っていた。
「みなさん、紹介するわ、柳沓子さん。うちの主人が大変お世話になった人です」
 全員がぴたりとおしゃべりをやめ、沓子はさすがに、居心地悪く頭を下げた。
 女たちの大半は、見覚えのある顔ばかりだ。いわゆる加納派と呼ばれる社員や役員たちのご令室。初見だと思われるのは、おそらく雅美の姉妹や従妹たちだろう。
「本当に姉さんもお人よしね。その人、……あれでしょ。元佑さんの」
「ほほほ、いいじゃない。いまさら亡くなった人を責めても仕方がないし」
 沓子を背後に従えたまま、雅美は機嫌よさそうに笑った。
「それに柳さんは、とても心の優しいお嬢様なの。今日だって、退職されているのにわざわざ手伝いに来てくださって……。ね」
 どう答えていいか判らず、沓子は曖昧に頷いた。誰も何も言わない室内にたちこめているのは、一種異様な緊張感だ。
「さ、柳さん。皆さんにお茶を淹れてくださる? あなた、お茶をお淹れになるのが抜群にお上手でしょ?」
 沓子の知る限り、雅美とは心の奥底に深い闇を抱えた人である。一見いかにも育ちのいいお嬢様風ではあるが、その精神状態には不可思議な波があって、悪い時には夫の加納ですら制御不能の暴走を始める。
 そして、おそろしく執念深い。加納と沓子の仲に雅美が勘付いたのは比較的早い段階であったが、その時、沓子は雅美に呼び出され、こんな奇妙な約束をさせられたのだ。
(柳さん。私はこんな風に身体も弱いし、子供も産めなかった女です。これからどうぞ、主人のことをよろしくお願いしますね。主人が会社にいる間は、何があっても主人や私を裏切らないと、あなた、お誓いになってくださるわね?)
 その一種異様な迫力に、当時24歳だった沓子は、逃れる術なく頷いた。
 そして雅美という人を、心から不思議に思った。どこまでが本気でどこまでが建前なのか。普通の女であれば、愛人相手に「夫を裏切らないでくださいね」とは、どうしたって出てくるセリフではない。
(何もかも私が悪かった。君には申し訳ないが、妻の言うとおりにしてやってくれないか)
 加納の諦めたような態度は、彼が平素から妻にまるで頭が上がっていないことを沓子に判らせるには十分だった。
 その翌日には、沓子が加納の愛人だと――奥様公認の愛人だという噂が、一部役員の間でまことしやかに囁かれるようになった。情報源は言うまでもない。そしてそれによって、沓子のポジションは殆ど決定づけられてしまったのだ。
 ライフガーディアンズにいる限り加納の愛人で、それは退職してもついてまわる。
 当時は、加納に初々しい愛情を抱いていたから、雅美のはからいに、多少なりとも感謝し、喜びを覚えてしまったのは事実である。
 しかし、やがて理解した。それは雅美の企んだ遠大な復讐だったのだ。――
「雅美さんは心の広い人なのよ。元佑さんは、本当にいい奥さんをもらわれたわ」
「本当ね。こういう立場の人を葬儀に呼ぶなんて、私たちにはとても真似できない。素晴らしいわ」
 そんな囁きと針のむしろのような空気の中、沓子はひとつひとつのテーブルを回り、湯飲みに茶を注いでいった。
 お茶といっても、各テーブルに置かれた急須に入っているものを、空の湯飲みに注いでいくだけの作業である。別に沓子がわざわざ注いで回る必要もないのだが、どのテーブルの誰一人として、急須に手をかけようという者はいない。
「それであなた、今は一体何をしてらっしゃるの?」
 切り口上でそう聞いてきたのは、岡倉常務夫人だった。沓子は思わず緊張した。彼女は元秘書課主任で、沓子とは入れ替わりながら、先輩にあたる人だからだ。
「おかげさまで、今は、九州で仕事をしております」
「ご結婚は? もうさすがにいい年でしょう。お子さんはどうなの?」
「そうですね。……それは、まだ」
 この会話は室内の全員が聞いているし、当然、雅美の刺すような視線も背中に感じる。
「岡倉さん、そういう質問は今はセクハラになるんだそうよ」
 隣に座る人事部長夫人が、笑いながら口を挟んだ。
「お気の毒でしょう。これから産むといっても相当高齢出産になられるわけだから」
「でも、子供が成人した時にもうおばあちゃんって、どうなのかしら。やっぱり子供は若いうちに産んでおかないと」
「――で? 柳さんは、今はおいくつでしたっけ?」
 沓子は仕方なく自分の年齢を言った。
「まぁ」「もうそんなに」「あらあら……若い時って本当にあっと言う間」
 示し合わせたような残念な声が、あちこちから飛び交った。
「お気の毒ね、あなた、あんなにお綺麗だったのに」
 岡倉夫人が、口元に薄笑いを浮かべながら沓子を見つめた。
「あなたの場合、良縁を探すといっても、なかなか難しいでしょうからね。やっぱり、よくない噂というのは広がっていくものだから」
「そういえば、一度東京蔵友銀行の頭取のご子息から、そのようなお話しがあったのではなくて?」
「あれは残念だったわねぇ。いくら向こうが柳さんに一目ぼれされたといっても、世間体が許さないでしょう」
「私だって息子の結婚相手が、万が一過去に不倫なんてしてたら……」
「さすがに無理でしょ。そこまで心は広くなれないわ」
 沓子は口の端を上げてうつむいたまま、黙って女たちの冷笑を聞いていた。
(いや、いくらなんでも室長が手伝いに行かれる必要はないんじゃないですか? 脩二さ……社長にお聞きしたんですが、今のライフガーディアンズは、なんていうか――雰囲気がよくないらしいですよ!)
 それは、東京行きを告げた時に、部下の白鳥に言われたセリフだ。
 香恋はおそらく、もっと詳しい社内情報を、鷹司から聞かされていたに違いない。
 雅美夫人が社内で権勢をふるい、すでに沓子がいられるような場所ではなくなっていることを、よく知っていたのだろう。
 もちろん沓子も、葬儀の席で、雅美が何かしら仕掛けてくることは予想していた。
 判っていて――それでも行こうと決めたのだ。
 沓子は顔をあげ、微笑んだ。
「ご心配いただいてありがとうございます。でも私、もう結婚は考えておりません。今は仕事が、」
 ぱしゃん、と目の前で何かが弾けた。
 何が起きたか判らないままに瞬きをすると、額から頬にかけて生ぬるい水が滴り、ぽたぽたと膝に落ちる。
 熱くないだけ、まだマシだったのかもしれない。驚きで声もでなかった。湯飲みのお茶を、かけられたのだ。
「あら、ごめんなさい。手が滑って」
 岡倉夫人が、驚いたように口に手をあてた。けれどその目は、明らかに嗤っている。
 押さえたような笑いが、室内のあちこちから沸き上がった。
「さすがにやりすぎなんじゃないの」
「いいわよ。葬儀の場に図々しくでてくるような女ですもの。そのくらいしてやっても」
 ――別に、たいしたことじゃない。
 うつむいたまま、沓子は自分に言い聞かせた。
 私だって、今と同じような真似を他人にしたことがあるし、それで怪我をしたわけでも火傷をしたわけでもない。だいたいこの程度のこと、葬儀に行くと決めた時点で、想定の範囲内だ。
 けれど、どうしてだか、ハンカチを取り出そうとした手が震えて動かない。それどころか身体全体が、石みたいに固まってしまっている。
 しっかりしろ、柳沓子。私はいつからこんな弱い女になったんだ?
「柳さん」
 柔らかな雅美の声が背後で聞こえた。
「私たちこの後、別のお店でお食事会をすることになっているの。当然あなたも、きてくださるでしょう?」
 ――それは……。
 からりと軽快な音がして、閉め切ってあった部屋の扉が開いたのはその時だった。
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。