何を言われているか判らない沓子は瞬きをし、冷泉はますます訝し気な顔になる。
「君は、僕の敬愛する叔母さんを悲しませた悪い人だ。それだけでなく、君らの不倫は冷泉一族をどれだけやきもきさせたか判らない。そういう意味で、君は僕に借りがあるんじゃないのかな……と、言ったんだよ」
 ああ――そっち。
「何度も言ったと思うが、君に新天地を用意したのは叔父さんだ。僕じゃない」
 沓子は黙って、再びスマートフォンをいじりはじめた冷泉を見つめた。
 そうでないことは判っている。あの時の加納に、そんな余裕も気力もなかったことは、沓子が一番よく知っている。
 本当に――食えない男。
 けれど、そんな一面があるとなまじ知ってしまったばかりに、今度は沓子が耐えられなくなった。冷泉の度を越した我儘と独占欲に、いつか鷹司が耐えられなくなる前に――杞憂だとは判っていても、ついおせっかいな忠告をしてやる気になったのだ。
「確かにおっしゃる通り、あなたのご家族に迷惑をおかけした面では借りがあるのかもしれません。けれど、親しい人たちを意図的に騙すように仕向けさせられた点では、私の貸しの方が随分大きいと思います」
 堂々巡りになると察したのか、冷泉は、疲れたように息をつく。
「――それで?」
「その差分だけ、今度は私に返してください。脩二君と、逃げずにちゃんと話し合ってください」
「そうしたところで、君に、なんのメリットもないと思うが」
 気にせずに、沓子は続けた。
「はっきり言えば、あなたの許可なんかなくても、脩二君は勝手に結婚できるんですよ。それをわざわざ――健気でいじらしいじゃないですか。週末の度に邪魔しに行ったり、旅行先にまでつきまとったり、あんまり馬鹿な真似を続けていると、今度こそ本当に愛想をつかされますよ」
 さすがにうんざりしたように、冷泉は両手を上げるようにして肩をすくめた。
「わかったわかった。では、君は僕にどうしろと?」
「ひとまずバカンスは中止して、大人しく仕事をしてください。会社の収益は上向きですが、決して安全圏にいるわけじゃないんですよ。社長抜きでは進まないプロジェクトも沢山あると聞いています。呑気にホノルルで遊んでいる暇はないでしょう」
 沓子は、ばんっとデスクを叩いた。
「今日の夜には、鷹司がこちらに到着する予定です。明日の商用のためですが、会っていただけますよね?」
「……ひとつ聞くが、君はどうしてここまで熱心に鷹司のことを?」
 気づけば、冷泉の目が、どこか不思議な熱をひそめて、何事か期待するように、沓子をじっと見つめている。
「っ、おかしな誤解はしないでください。ただ、――結果的に2人を引き裂いていたことが、なんとも後味が悪いんです。白鳥も鷹司も基本お人よしで、私のことを一切責めないだけに、なおさら」
 それとあなたに、これ以上みっともない真似をして欲しくないから。
「なぁんだ」
 つまらなそうに呟いた冷泉は、ようやく全てを諦めたように首を左右に振った。
「……アイシー。君の言う通りにしよう。ゼア イズ ノウレンディング オア ブロウイングビトウィーン アズ。これで僕らの貸し借りはなしだ」
「ありがとうございます」
 沓子は内心ほっとしながら頭を下げた。
 正直言えば、これで沓子の、鷹司への負い目も消えようというものだ。
 心ならずも、可愛い後輩2人の恋路を邪魔してしまった。それがなんだか、手の届かない部分の痒みのようで、思い出せばムズムズするような、ずっと形容しがたい居心地の悪さを覚えていたのだ。
「課長を、ここへ」
 やがて、冷泉に電話で呼び出された秘書課長が、大慌てで駆けつけてきた。
 沓子がいた頃は総務の課長補佐だった黒岩という男だが、今はその頃の倍も白髪が増えている。気の毒に……と思いながら、沓子はそっと後方に下がった。
「悪いね。ハワイへのバカンスはとりやめだ」
「承知いたしました」
「その代わり、昨日キャンセルした例の会議に出席することにした。至急、チケット諸々を手配してくれないか」
「……、すぐに」
 生真面目な黒岩課長が漏らした1秒の間は、その手配が困難を極めることを沓子にも予感させた。
 ――なんの会議かしらないけど、お気の毒様……。
 黒岩が退室し、再び室内は沓子と冷泉の2人になる。
「じゃ、君もそろそろお暇してくれないかな。これから大急ぎで支度をして、羽田に向かわなければならないのでね」
 そう言った冷泉が、不躾にもアロハシャツのボタンを外し始めたので、沓子は慌てて背を向けた。そして思った。――ん? 羽田?
「……社長、もしかしてこれからすぐに出かけられるんですか」
「おそらく、ホノルルに行くより急ぎになると思うよ。なんといっても、行先はブラジルだ」
「――はっ?」
 ブラジル?
「そんなに驚かなくても、君の助言どおり、バカンスはやめにしてビジネスを優先することにしただけだ。くだらない会議だから明専務を代理で行かせるつもりだったが、仕方ない。向こうの法人と業務提携の話があってね、……そうだな。もともと休暇をとるつもりだったから、しばらく滞在して、カーニバルでも観て帰るかな」
「ちょっ……」
 振り返った沓子は、肝を抜かれたように言葉をのんだ。
 さきほどまで派手なアロハシャツを着ていた男は、今は淡いグレーのスーツ姿で、きちんとネクタイまで締めている。
 まるで奇術師のような早変わりを見せた冷泉は、涼し気な微笑を浮かべてスーツケースを床に降ろした。
「鷹司の健気さなら、君に言われなくても僕が一番よく知っているよ。ホノルルにもし鷹司が来れば、2人でクルージングでもしながら、彼の家族計画について前向きに考えるつもりだったが、なにしろ会社がこんな状況だ。――君の、ご指摘のとおり」
 切れ長の目に、からかうようなウインクを掠めさせると、冷泉はさっそうと歩きだした。
「鷹司に会ったら、ぜひ伝えてくれないか。地球の裏側で待っていると」
「…………」
「ま、彼は忙しいから、おそらく来るのは無理だろうけどね」
 パタンと扉が締まり、室内には沓子1人が取り残される。
 やられた。
 どうしてこんなことになったのか判らないけど、結局はあの男のペースに乗せられ、あの男の想定通りの結末に落ち着いたのだ。
 思えば派手なアロハシャツもサングラスも、沓子をいざなうフリだったのかもしれない。沓子の口から、ハワイ行きを反対させるための。
 そして、彼の愛する弟にはこう言い訳するつもりなのだ。
(悪いね。鷹司。僕はハワイで君と話し合うつもりだったのだけど、どうしてだか、君の部下が押しかけてきて、ブラジルに行けと言ってきかないんだ。もしかして、鷹司、彼女に嫌われているんじゃないのかな……)
 その時の口調や表情までもが、もう、手に取るように想像がつく。
 ――ごめん、白鳥さん。私もう、二度とあの男には関わらないわ……。
 完全敗北を認めた沓子は、呆然としながら、無人になった社長室を後にした――



(2)葬送に続く

 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。