「社長は私に、大きな借りがあると思いますが」
 もう回りくどい説明が面倒になって、少しなげやりに沓子は言った。通話を切ったスマホを弄びながら、「借り?」と冷泉は不思議そうに小首をかしげる。
「もうお忘れですか? 白鳥が、黒魚華麗という偽名でうちの会社に来た時のことです。私、社長のご命令どおり、どれだけ脩二君から聞かれても、あの子のことを一言も漏らさなかったんですよ」
 少しだけ感情的になってしまったのは、その件では、沓子もまんまと冷泉に騙されていたからだ。
「私はてっきり……、あなたの言うように、白鳥が人生をリセットするつもりでいるんだと信じていたんです。一社員が将来の幹部候補と結婚するには、それ相応の覚悟がいりますからね。当然、仕事は続けられませんし、あの子が結婚退職をあっさり受け入れることも、考えにくいと思ってましたし」
(一度、鷹司と離れて自分を見つめ直したいというんだよ。白い鳥さんにしても、ようやく仕事が面白くなりはじめたところで、すぐに結婚退職は考えられないんじゃないのかな。そのあたり、鷹司との話し合いがどうもうまくいっていないみたいでね)
 つまり白鳥にとっては、鷹司との関係を冷静に見直すための猶予期間――それが欲しくて、わざわざ名前まで変えて鷹司と距離を置いているのだと、冷泉の説明を聞いた沓子は、素直にそう信じていたのである。
 だからこそ白鳥のことは、その鷹司から何度問い合わせがあっても知らないと言い続けていた。が、半年過ぎたあたりから、まず白鳥の態度に不審なものを感じるようになった。
 鷹司のたの字も口にしないどころか、うっかりその話題が出ると、奇妙なほどテンションが高くなる。まるで、失恋の痛手から必死に立ち直ろうとしているかのように。
 なんかおかしいぞ……? と思い始めた頃になって、今度はその鷹司が、沓子のボスとしてライフガーディアンズから派遣されてくることになった。
 そして、初めて詳しい事情を聞いて、心底驚き、また呆れ、そして怒ったのである。
 鷹司ははっきり言わなかったが、白鳥と鷹司は、2人の仲に反対する冷泉の手によって、意図的に引き離されていたと――それが、ようやく沓子にも判ったからだ。
「別に君を意図的に騙していたわけじゃないよ」
 しかし冷泉は、涼し気にそう答えた。
「この物語における君の役割を考えた時、君に与える情報はあの程度が妥当だろうと判断したんだ。考えてもごらん。僕が詳しい事情を話していたらどうなっていただろう。君は本当の意味で僕の共犯者になり、白い鳥さんにも鷹司にも、生涯顔向けできなかったろう」
「それ以前に、社長のご依頼を断るという選択肢もあったはずですが」
「だったら言うが、君に、僕に借りはないのかい?」
 2人の目が合い、沓子はぐっと言葉につまった。
 冷泉が何を言っているのかはすぐに判った。加納前社長の退陣に伴い、沓子が会社を辞めざるを得なくなった時のことを言っているのだ。
 遡ること一年半前。加納に代わって冷泉が社長になることが正式に決まる少し前――沓子のもとに、その冷泉から直接電話がかかってきたのである。
(やぁ、柳本さん。君の異動先が決まったよ。僕の社長就任と同日に異動辞令が発令されることになる。君は、島暮らしは好きだったかな)
 ある程度の覚悟はしていたとはいえ、その異動先は衝撃的なものだった。実はその時点で沓子は、たとえ石に噛り付いてでも、会社に残るつもりだったのだ。
 加納が退任するからといって、負け犬のように自分まで会社から出て行くのは絶対に嫌だ。たとえどこに飛ばされても、絶対に実力でのしあがってやる――そう思っていたのだ。
(これは僕の……というより、叔父さんの最後の思いやりだと思って聞いてもらえないか。雅美叔母さんが人事部長と姻戚関係にあるのは知っているかい? 君がこの会社に残る以上、もう何をしたって目は出ない。残酷なようだがそれは、仕事に女を使った君の自業自得でもある)
 雅美叔母さん、というのは、加納の妻で、ライフガーディアンズにとっては大手取引先の元社長令嬢である。加納は、婿養子という形で雅美と結婚し、加納姓になったのだ。
(ただし、後年の君が、叔父さんの精神的支えだったことは僕もよく知っている。だからこそ、叔父さんの最後の願いを聞き届ける気にもなったんだ。君が人生をやり直すための新しい環境を用意したよ。妙な意地など張らずにライフガーディアンズを辞めなさい。今なら、君はむしろ尊敬をもって、後輩たちから見送られる)
 淡々とした冷泉の言葉は、ひとつひとつが鋭い楔となって、沓子の胸に突き刺さった。
(君が、新しい場所で、今度こそ幸福な人生を見つけることが、余命わずかな叔父さんの切なる望みだとだけいっておくよ。むろん、決めるのは君で、僕に無理強いする気は毛頭ない)
 その夜、何年かぶりに沓子は泣いた。若かった頃の愚かなあやまち――そのあやまちが、いつしか本当の愛情に変わっていったこと――後悔は絶対にしないつもりだったし、その代償も覚悟していたつもりだった。けれど、過ちの代償は、自分1人で背負えばいいものではなかったのだ。
 一晩泣き明かして、沓子は冷泉の申し出を受けることを決意した。
「あの時のことは……確かに、冷泉社長には感謝しています」
 沓子が改まった気持ちでそう言うと、冷泉は不思議そうな顔で眉をひそめた。
「感謝? 僕が叔父さんの愛人である君を疎んじていたことまで、感謝される筋合いはないと思うんだがな」

 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。