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「何をしてらっしゃるんですか」
扉を開けた途端、柳沓子(やなぎ とうこ)は、そんな言葉を吐くと同時に、ふっと眉をひそめていた。
部屋の主は机についたままで顔もあげず、物憂げな目で手にしたスマートフォンを操作している。
「少しの間、長期で出張に出ることになってね」
「……その日本語、おかしくありません?」
「そうだろうか? だとしても、僕が帰国子女だということを、君は失念しているんじゃないのかな」
――はァ? 部下の顔もろく覚えられない人に、失念とか言われても……。
と、喉元まで気短な感情が出かけた沓子だが、すぐに微笑んで、部屋の主、冷泉総一郎(れいぜん そういちろう)の前に立った。
「柳沓子です」
「名乗らなくても、名前くらい記憶しているよ」
「申し訳ありません。きっと以前の習慣ですわ。私が、こちらの秘書課だった頃の」
(柳川、さん……?)
(あ、安田さんだったね)
(柳楽さん、今度は間違えなかったよ)
(わかった、君が鬼怒川さんだ!)
会うごとに、本名から離れていかれた時は、本気で嫌がらせをされているのだと思った。
当時の沓子は、冷泉の叔父である加納副社長の秘書に抜擢されたばかり。新入社員一……いや、女子社員一の美人だと評されていた沓子は、社内の誰からも羨望の目を向けられていたのだ。
しかしそんな中、一つ年上で、次期社長としてすでに役員職についていた冷泉だけは、まるで空気かそれ以下の存在のように、沓子に接した。
それは彼が社長になり、やがて加納との争いに敗れて社外に去ってからも続いたのだ。
(やぁ、江戸川さん、まだ叔父の秘書をやっているのかい?)
はっきり言えば、これほどの屈辱を沓子に与えた人間は、後にも先にも、目の前に座るこの男しかいない。
「その時の僕は、僕を疎ましく思う叔父さんの秘書に、なんの関心も持ち合わせていなかったからね」
冷泉は、軽くため息をついて、指でスマートフォンの画面をスワイプした。
「思えば君とのスキャンダルを逆手にとって、叔父さんをぎゃふんと言わせる方法もあったんだ。だけど、そうはしなかった。きっと僕にも、身内に対する最低限の礼節があったんだろう」
――ぎゃふん?
沓子は軽く咳払いをして、そこは帰国子女らしい、ずれた言葉のチョイスをやり過ごした。
それにしても、ここに来る前から予想はしていたが、今日のおぼっちゃまのご機嫌は相当に悪いらしい。この人のの吐く柔らかな毒には、天然と故意が無意識に入り混じっているのだが、今日はそれが故意であるだけでなく、若干の意地悪ささえ垣間見える。
確かに、冷泉総一郎には、彼が言うだけの『礼節』があるのだろう。
加納元社長の、半ば公然の愛人だった沓子は、彼の出身一族――株式会社ライフガーディアンズの創業一族から、何かにつけて冷たい目を向けられる存在だった。
それは加納の引退が決まった途端に顕著になり、結果、沓子は自主退職を余儀なくされたのだが、創業一族でただ一人、その報復劇にわれ関せずの顔で一切加わらなかったのが冷泉だったのである。
「いずれにしても、ようやく名前を覚えていただけて光栄です」
「君には、白い鳥さんの件で、色々迷惑をかけてしまったからね」
やはり顔をあげないままで、冷泉は続けた。
「ただ僕は、君の名前から、否応なしに女性の靴を思い出してしまうんだ。なんていうのかな。あの凶器みたいな鋭いヒールで、僕が踏みつけられてしまうという……」
「足に沓と書いて、おっしゃられたとおり、踏みつける、ですからね。沓が日本でいうところのシューズになったのは、踏むが語源との説もあります。さすがは冷泉社長、帰国子女だけいらして、漢字にかけたお見事な皮肉ですわ」
「……君の日本語の方が、案外おかしいような気がしてきたよ」
ようやく冷泉は、どこか憂鬱げな顔をあげた。
なめらかな白い肌に、すきとおった二重の双眸。百人中百人が、非のうちどころのない美形だと賛美する顔。
沓子が初めてこの男を見たのは、彼が23歳の時だが、その時から、不思議なくらいひとつも容貌が変わっていない。髪も若い頃と同じ質感を保って優雅に波打ち、細く引き締まったスタイルも昔のままだ。
妖怪――といっても過言ではない。
「で? そろそろ用件を言ってくれないか。君のような忙しい人が、何もまわりくどい嫌味を言うために僕のオフィスに寄ったわけではないだろう?」
その通りである。現在、沓子は九州のとある電気部品メーカー、その秘書室に勤務しているが、東京出張ついでに沓子の古巣――赤坂のライフガーディアンズ本社に寄ったのは、決して懐かしさからではない。
目の前に座る男に、是が非でも言い聞かせておきたいことがあったからだ。
が、沓子の意気込みは、バブル期の名残を残した豪華なオフィスの扉を開けた瞬間、風船から空気が抜けるみたいに萎んでいった。
足が沈みそうなほどふんわりとしたオリーブ色のラグマット。照明を反射してきらめくマホガニーのデスク。身体全体を包み込み、子守歌さえささやいてくれそうな伊製のソファーーそもそもがオフィスらしくない部屋の中にあって、一番それらしくないのが、当の冷泉その人だったからである。
まず、来客用の応接テーブルの上には、ど派手な星条旗がプリントされた真っ赤なスーツケースが無造作に置かれている。
さらに冷泉が着ているのは、見た目鮮やかなアロハシャツだ。おでこにサングラスをひっかけ、首には色とりどりのレイまでかけている。それが入室のしょっぱな「何をしてらっしゃるんですか」と沓子に眉をひそめさせてしまったそもそもの原因だったのである。
――ありえない。これから休暇に入るとしても、オフィスでこの恰好だけはありえない。
私がこの男の秘書だったら、絶対こんな真似許さない。
加納元社長が「誰が社長になってもいいが、総一郎だけは駄目だ。あれは日本人の……いや、人間の常識が通じない」と、嘆いていた時の心情が、いまさらながらひしひしと身に染みて理解できる。
非難がましい沓子の視線に気づいたのか、冷泉は軽く肩をすくめた。
「実はしばらくの間、ハワイでビジネスを楽しんでこようと思ってね」
バカンス、ですよね?
言葉に出さず、沓子は黙って微笑んだ。しかも邪推すれば、その「バカンス」にはもっと底意地の悪い、大人げない思惑が絡んでいるはずだ。
「今、電子決済が回ってくるのを待っているところだ。それが終わらないと出発できないんだが、いよいよ待ちくたびれて先に着替えてしまったよ。――で、君の用件をまだ聞いていないんだが? 柳さん」
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