黙ったまま動けない香佑の傍らに、匠己はそっとしゃがみこんだ。
「足、しびれるぞ」
 それでも香佑は動けなかった。
 別に、傷つくようなことを言われたわけでもなんでもない。なのに、何故か、見えない力で頭を殴られたような、静かで深い衝撃があった。
「今だから、正直に言うけどな」
 静かな声で、匠己は言った。
「お前と見合いするって決まった時――正直言えば、ずっと半信半疑だったんだ。何があったか知らないけど、お前が故郷に逃げ戻って、親の決めた相手と結婚するとか、そんなの絶対に嘘だと思った。怒るなよ。心のどこかで、ずっと断られればいいと思ってたんだ、俺」
「……………」
 それは、初めて耳にする見合い当時の匠己の心境だった。
「見合いの席でも、ずっとそんな気持ちだったかな。お前がさ、なんでこんなど田舎であんたみたい男と結婚しないといないのよ、とか言ってさ。ちゃぶ台ひっくり返して出ていくの、心のどっかで期待してたのかもしんない」
 そこで言葉を切った匠己が、「そのくせ――」と独り言のように呟いた。
「そのくせ?」
「いや、なんでもない」
 なによ。ここまでズケズケ言ったんだから、もう何もかもぶちまけてくれたらいいのに。
 前を見つめたまま、香佑は言った。
「……がっかりしたってこと?」
「え?」
「だから見合いではあんな髭モジャで、愛想もなくて態度も悪くて、私のこと無視してたってこと?」
「え……」
 匠己はぱちぱちと瞬きをした。
「そんなだった、俺」
「そうよ!……そうだったわよ」
 香佑は力なく膝を抱えて視線を下げた。
 昔はカッコ良かったと言ってくれた。女性への褒め言葉としてはどうかと思うけど、それでも少し嬉しかった。
 でも今は――違うってことだ。私は彼にとって、すでに過去の、終わってしまったコンテンツなのだ。
 匠己は、所在なげに頭を掻く。
「まぁ……、仕事が重なって半分死にかけてたのは確かだけど――ちょっとそこまで言われるのは心外というか」
 何が心外よ。
 自分は言いたい放題言ったくせに。
「……がっかりしたんでしょ、私に」
「してないよ、そんなんじゃない」
 ぽん、と頭に手を置かれた。
「ただ、なし崩しに夫婦になって、俺んとこで石屋の女将さんやるのがお前のためかっつったら、それは絶対に違うと思ったんだ」
「意味、わかんないんだけど」
「うーん、どう言えばいいのかな」
 匠己は困ったように頭を掻いた。
「昔も今も、お前は、大切な友達だってことだよ」
 大切な。
 友達―――
 手のひらが頭を離れ、再度、緩く叩かれた。
「最初の夜は苦し紛れに色々言ったけど、仮に普通にお見合いして、その相手がお前以外の誰かだったら、今頃何も考えずに夫婦になってたんじゃねぇかな。多分相手がお前だから――絶対に嫌だったんだ」
 なにそれ。
 本当に意味がわかんない。
 それって私が友達だから?
 恋愛感情なんて持てないから?
「だったら最初から、結婚なんて断ればいいじゃない」
 それには初めて匠己が言葉に詰まるのが分かった。
「ま、……それはそうかもしれないけど」
「そうよ。考えなし。おかけで私たち、普通に幼馴染してた頃よりますます複雑なことになっちゃったじゃないの」
 涼子さんが出てきたり、慎さんとのことで誤解されたり、さらに藤木悠介まで絡んできて、それが全部険悪なことになっている。
 そういうのも全部ひっくるめて、私たちがいい加減な気持ちで結婚したことが引き金なんじゃないの。
「でも、そうしてたら、お前、他の相手と誰でもいいから結婚してたろ」
「しっ、失礼な、誰でもいいわけないじゃない!」
「いや、でも親父さんの口ぶりだと……」
「お父さんが何言ったのかは知らないけどね。私だって相手があんたじゃなかったら――」
 自分の言いかけた言葉に、香佑は狼狽えて視線を下げた。
 黙ってしまった匠己の視線を強く感じる。
「……相手が俺じゃなかったら?」
 知らない。
 いちいち恥ずかしいこと言わせないでよ。
 相手があんたじゃなかったら――多分どっかの時点で我に返って逃げてたわよ。
 あんただったから、今まで一緒にいるんじゃないの。
 土砂降りみたいに降りかかる、最低最悪な試練も我慢して。
「つまり――昔の知り合いで安心したってだけのことよ。ほら、見ず知らずの他人といきなり結婚するより、曲がりなりにも幼馴染の方が気が楽じゃない」
 なんとか平静を装って言い訳すると、匠己がわずかに息を吐くのが判った。
「……そっか」
「そうよ。間違ってもおかしな意味に取らないでよ」
「だったらなおさら、俺と結婚してよかったじゃん」
 ん? どうしてそうなるの?
「俺さ」
 眉を寄せる香佑の頭に、再度大きな手が被せられた。
「この前お前に、俺にも慎さんにも遠慮すんなって言ったよな。お前は怒って出ていったけど、あれはなにも――恋愛云々の意味じゃない。お前のやりたいようにやってみろって、そう言ったつもりだったんだ」
 私のやりたいようにやる……?
「なに、を?」
 思わず顔を上げた香佑を、匠己は優しく見下ろした。
「なにって全部、涼子のことも慎さんのことも、――町内会の仕事も店の仕事もだ」
「…………」
「正直言うと、口出したくてハラハラしてた時期もあったけどな。過去形じゃねぇか。ここ最近だって、危なかしくて見てられないくらいだった」
「わ、悪かったわね」
「今日もな。本当のこと言うと、こう言うつもりだったんだ。もう涼子には関わるな」
「…………」
 香佑は表情を翳らせた。
 その意味することはなんだろう。やはり涼子さんは藤木悠介とぐるになっていて、それを匠己はもう知っているということ――?
「お前がそれでも四の五の言うなら、俺が涼子に言うしかねぇな、と思ってた。でも……やめたよ」
 やめた。
「ただこれだけは誤解すんなよ。俺は涼子と結婚なんてしないし、……とにかく、今はもう、そんな関係じゃねぇんだよ。俺の勘違いでなればお互いに」
「どういう、意味?」
「涼子、俺なんか見てないだろ。今回のことでお前もよく判ったと思うけど」
 香佑は、眉を寄せながら匠己を見上げた。
 なに、ますます意味が判らない。じゃあ涼子さんは、一体誰を見ているということ?
 誰がどう見ても、まだあんたが好きだとしか思えないんですけど。
「まぁ、暴走中の涼子をどうするかも含めて、お前を信じてみることにした。馬鹿みたいに無謀なことでも、お前ならなんとかするかもしれないからさ」
「…………」
 なによ、それ。
「俺自身、そんなかっこいい嶋木が、もっかい見たくなったのかもしれないけどな」
「…………」
 香佑は戸惑いながら視線を下げた。
 それ――
 でもそれ――見事に的外れの期待じゃない。
 だってこの家に来てからの私、やることなすこと、全部失敗してるんだよ。
 挙句、竜さんを出て行かせる羽目にまでなっちゃって――
「俺さ、お前には胸張ってこの家出ていってもらいたいんだ」
 軽く息を吐いて立ち上がりながら、匠己は言った。
 その言葉に顔をこわばらせた香佑の気持ちなど、一向に構わずに匠己は続ける。
「その時が来たら、俺に恩義を感じることもなければ、店にしばられる必要もない。……上手く言えねーんだけど」
 言葉を切った匠己は、もどかしげに頭を掻く。
「お前もそのために、生まれ故郷に戻ってきたんじゃないかなって思って」
「そのため……?」
「うん」
 匠己はしゃがんだままの香佑の腕を引いて立たせた。
「胸張って生きていくため」
「…………」
 胸を張って。
 生きていくため――
 静かで深い衝撃が、不意に頭上から被さってきたような気がした。
 そして、ひとつの情景が、香佑の脳裏を素早く掠めて消え去った。なにか――ひどく大切で、胸に焼き付いていたはずの景色が。
「さて、そんな嶋木にひとつ頼みがあるんだけど」
「な、なによ」
「竜さん、この家に連れ戻してくれないか」
 ――は?
 さすがに言葉の意味を図りかね、香佑は匠己を見上げて瞬きをした。
「連れ戻すって……どうやって?」
「だから、その辺りは嶋木が考えて」
 はぁ?
 それ、一体どんな無茶ぶりなの?
 どこにいるかも判らない人を、一体全体どうやって。
「さっきも話したけど、俺、竜さんと最後の夜に会ってんだ。俺なりに言葉を尽くして説得した。でも――竜さんの気持ちは変わらなかった。多分だけど、店の誰が話をしたってそれは同じだと思う」
 匠己は手にした懐中電灯で永代供養墓の辺りを照らしだした。
「だけど、お前だったら――もしかして、なんとかなるんじゃないかって気がしてさ」
「な、なんとかなるわけないじゃない。そんなの無理に決まってるわよ」
 即答してから、香佑は気まずく視線を逸らした。
 何かしたところで、どうせまた失敗するに決まってる。
 だいたい、今の私に、そんな力なんて全然――
「……ま、そうだな。悪い。俺の身勝手な願望だ」
 匠己はあっさりと自分の言った言葉を取り下げた。
 そうよ、あんたにも無理なことが、今の私に絶対できるわけがないじゃない。
 けれど、再度めぐらされた懐中電灯の灯りが、永代供養墓に備えられた一輪の花を照らしだした時、香佑は思わず言っていた。
「ねぇ、絶対って」
「え?」
「絶対は、しょせん自分の中にしかないってどういう意味? 前竜さんが言ってたんだけど」
「竜さんが?」
足を止めた匠己は、一瞬、考えこむような表情になった。
「わかるよ」
「本当に?」
「竜さんが言ったんならな。出来る出来ないを決めるのは、最終的には自分だってことだろ」
「…………」
「自分の気持ちなんて、その気になれば変えられるだろ? だから絶対なんて言葉はいつだって儚いんだ。そういう意味じゃねぇのかな」
 
 
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 その夜、匠己と別れて一人部屋に戻った香佑は、匠己に言われた言葉の数々をずっと考え続けていた。
 はっきり友達だと言われた。
 いずれ、出ていって欲しいみたいなことも言われた。
 いってみれば香佑は、またしても初恋の人にふられたのだ。なのに、そのあたりに関する衝撃は、不思議なほどわずかだった。
 それよりずっと、香佑の心を占め続けている言葉がある。
(お前もそのために、生まれ故郷に戻ってきたんじゃないかなって思って)
(胸張って生きていくため)
 あの日――南に向かう新幹線の中で、いきなり父から電話がかかってきた。思えば、それが全ての始まりだった。
 見合いしないかと言われたが、もちろんその気は全然なかった。ただすぐ切るのが悪いから、適当に話を合わせていただけだった。
 相手が社長だと聞いて、少し心が動いたっけ。
 今にして思えばさもしいが、それも致し方ない。東京で、香佑は本当に貧窮していたのだ。思えばよく身を持ち崩さなかったと思うほどに。
 それでも、動いたのは一瞬で、すぐに我に返ったような気がする。
 いくら金持ち相手でも、結婚なんて考えられない。男なんて――本当にコリゴリだったから。
 なのに――
 香佑はようやく、匠己と話していた時、脳裏に蘇った情景を思い出していた。
 あれは、あの日、新幹線の中から見た景色だった。
 連なる稜線に落ちる夕日。山裾に広がる緑の田園。そこに点在する家々。
 その時、香佑は確かに思ったのだ。
 帰りたいと。
 自分が育った生まれ故郷に。
 自分が―― 一番輝いていた頃に。
 気づけば涙が頬を濡らし、それは幾筋も幾筋も、止まることなく香佑の頬を伝い落ちた。
 悲しいのとも悔しいのとも違う涙は、どこから来るのかさえ判らない。
 鼻をかんで――深呼吸して、どれだけ気持ちを入れ替えても、後から後から溢れてくる。
 やがて泣き止む努力を放棄した香佑は、壁に背を預け、たてた膝を胸にくっつけるようにして、ただ涙が流れるままに任せていた。
 そんな風にして、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。ゴミ箱がティッシュでいっぱいになった時、ふと気づけば、室内には朝の気配が訪れていた。
「……掃除」
 香佑は気づいて、ほぼ無意識に立ち上がった。それだけじゃない、今日は魔のゴミ分別の日だ。
 竜さんがいないから、今朝は一人で何もかもやらなくちゃ。
 着替えを済ませて外に出た時、香佑は自分がひどくすっきりした気持ちなのに気づいていた。
 空は晴天。空気はひんやりとして、緑はまだ色鮮やかだ。
 山の稜線は淡いもやに包まれ、庭の木々の葉には透き通った朝露が降りている。
 ああ、綺麗だな、と香佑は思った。
 どうして今朝まで気づかなかったんだろう。
 自分を取り巻く世界が、こんなにも美しいことを。
 ――うん。
 うん、そうだね、竜さん。
 なんだか私、今日はなんでも出来そうな気がしてきたよ。
 それはまだ、絶対って言えるほど、確かなものじゃないけれど。
 掃除道具を持って墓地の方に向かって歩いていると、坂をのろのろと上がってくる車が見えた。
 側面に吉野石材店とロゴが書かれた軽自動車。店に一台しかない営業車だ。その運転席に座っているのは――
「はい? 慎さん?」
 嘘でしょ。まだ朝の五時なんですけど?
 香佑も吃驚したが、車の中から香佑を見つけた慎も、かなり驚いたようだった。
 坂の途中で停めた車から、少し戸惑った風に顔を出す。
 その顔を見た香佑は、二度驚いていた。
 なに、この人まさか一睡もしてないの? 頬もこけて無精髭も生えてるし、なんか別人みたいに憔悴してるんですけど。
 一瞬、苦手意識が足を止めさせたものの、香佑は一息ついて、歩き出した。
 よほどこの偶然の出会いが不快だったのか、慎の顔は、むしろ強張ってさえ見える。なのに、自分のこのテンションの高さはどうだろう。
「おっす!」
 香佑は敬礼してから言った。
「――は?」
「まさかと思うけど営業車使って朝帰り? 昨夜から匠己が心配してたわよ」
「お前……」
 慎が、何か言いたげに口を開く。しかしそれは、なぜだか不機嫌そうに閉じられた。
 まぁ、そうよね。
 あんだけ、お互いに話しかけるなオーラの張り合いしといて、今更それとっぱらっても、腹立ちは収まらないか。
 あえてからっとした口調で香佑は言った。
「私、今から掃除とゴミ行ってくるから。慎さん、悪いんだけど、匠己のご飯作ってくれない?」
「………え?」
「んじゃ、頼んだから。さーて、今日も朝から忙しいわ」
「え、おい、お前――」
 香佑は、構わずに歩き出した。
 さて、とりあえず何から手をつけていいのか分かんないけど、頑張りますか。
 竜さん、この店に呼び戻すために。
 私がもう一度、私らしく輝くために。
「見てなさいよ、匠己」
 いつもいつもえらそうに上から目線で――胸張ってこの家出ていって欲しい? いいじゃない、出ていってやろうじゃない。
 でも覚えてなさいよ。私がこの家を出ていく日が来たら、あんた、絶対後悔するんだから。
 いや、絶対にさせてみせる。
 そうよ、追いかけるばかりの恋だったけど、今度はあんたに私を追いかけさせてみせるわ。
 自分を守るだけの毎日とは、今日できっぱり決別よ。
 香佑は箒を持ち直すと、意気揚々と前を向いて歩き出した。
 
 
 
 
 
 
 
 
                             墓より男子A終
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。