―――人魚は海から顔を出し、見てはならない夢を見る。





「……君は、その人を選ぶのか」


 黒衣をまとう、男の声は冷静だった。
「ごめんなさい……」
 男と同じ黒をまとう、女の声は乱れていた。
 薄闇に覆われた狭い室内。ほのかに灯る白熱灯の下、三人の男女が対峙している。
 一人の女と二人の男。
 三人とも、よく知っている顔。なのに―――三人とも、今まで見せたことのないような表情を浮かべている。
「本当にそれで、君は後悔しないのか。この人は、君を置いて、東京へ帰ると言っているんだぞ」
 冷静な口調で、黒衣に包まれた男は続ける。
「…………」
 それに答える声はない。
 わずかな沈黙。そして、ため息。
「……判った……後は、二人で話してくれ」
 去っていく黒衣の、真直ぐな背中。
 男が羽織っている黒い衣が、扉の向こうで風に揺れた。そして音もなく扉は閉まる。
 しん……と、空気まで静まりかえってしまった室内。
 残されたのは、黒衣の女と、そしてグレーのスーツにネクタイを締めた、背の高い男だった。
 その男は、痩身で手足が長い。鼻筋のすっきりとした綺麗な横顔をしている。
「彼の言う通りだ」
 男の横顔が呟いた。初めて聞くような暗い声。突き放したような冷たい響き。
「……俺は、君を愛してはいない。東京へ戻れば、婚約することも決っている。……君は、彼と一緒になるべきだ」
「……どうしても、駄目なのね」
 泣いているような声が返る。
 実際――女は、泣いていたのかもしれない。
「どうしてなの?私は何もかも棄てるつもりだったのに……どうしてなの?」
 その横顔が震えている。
 男は立ったまま動かない。身じろぎもせずに、冷たい口調とは裏腹の――辛そうな眼差しを、目の前の女に向けている。
「……もう、知ってるんだろう、俺が嘘をついていたことは」
 やがて吐き出された声は、本当に苦しげだった。
「……最初から、騙すつもりだった……遊びだったんだ……悪かったと思っている」
「……言わないで」
 男の短くて黒い髪に、白い指が添えられた。
「あなたはそうでも私は違う、……好きなのに……苦しいくらい、好きなのに……」
 言葉が途切れ、離れていた影がひとつに重なる。
 抱き締められる男は動かない。沈鬱な眼差しのまま、女の動きに身を任せている。
「いっそ……」
 動かない男に焦れたのか、女の横顔が、唐突な笑みを浮かべた。
 眼は泣いているのに口元だけが笑っている、そんな不可思議な表情のまま、女はじっと男を見上げた。
「殺してしまいたい、……童話の中の人魚みたいに、あなたを」
「………」
「卑怯な男……ずるい男……」
「……その通りだよ」
「いつか………必ず罰が下るわ、私にも……あなたにも……」
 女のまなじりから涙が伝う、幾筋も、幾筋も、まるできれいな音楽をつむぐように。
 そして、その横顔がゆっくりと微笑した。
「……キスしてくれる……?最後だから」
 わずかな沈黙。
「もう一回……」
 触れ合う吐息の音だけが、静まりかえった室内に響く。
「もう一回…………」
 すすり泣くような女の声。
「もう一回……みかみさん……」
 それが最後に聞こえた言葉。


 見上げた天窓に、何時の間にか雪が積もっていた。





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