聞こえる、恋の唄
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エピローグ
………<2>………

大きな腕で抱き締められる。

暖かな温みと独特の香り。
志野は広い胸にもたれて目を閉じた。

あまりにも幸せで穏やかな生活。

このような日々が、これからずっと続くのだということが――、今でも志野には、自分にはもったいない、分不相応な気がしてしまう。

けれど、同時に知ってもいる。

二人は今、人生という苦難の旅の、ほんの入口に立ったばかりだ。

時代は、まだまだよくはならない。
誰もが見えない夜明けを目指し、必死に生きている時代。

「皆が集まるなら、なにかと準備が大変だろう」

髪を撫でながら、雅流が優しく囁いた。

「午後まで、何もしなくていい。このまま……、時間まで俺と一緒にこうしていよう」

「まぁ、そういうわけには参りません」

即座に志野は顔を上げた。

「これから出稽古なのに、お腹の虫にでも泣かれたら私の恥です。お出かけの前に、何か少しでも口にされませんと」

「それを現実家だというんだ」

雅流は、少しむっとした表情になる。

「俺が今、どういう気持ちか判るのか。こんな日に、昼食などどうでもいいじゃないか」

「どうでもよくありませんわ」

「いや、どうでもいいさ」

「そんな、子どものようなことを……」

あまりにも雅流の表情が頑ななので、志野は思わず微笑していた。

愛しいと、志野は思った。

私は……この人が、愛おしい。

ようやく照れたように、雅流は志野を解放して立ち上がる。

「まぁ、確かに腹がすいたな」

「すぐに支度をします、待っていてください」

志野は立ち上がり、廊下に出た。

開け放たれた縁側から、魚屋の掛け声が聞こえてくる。

やがてそれに、静かな三味線の音色が重なった。

(まぁ、どちらが、現実家なのかしら)

苦笑した志野は目を閉じ、そっと腹部に手を当てる。

やがて父親になる人の奏でる調べに耳を澄ませる。

暗い時代は、まだ本当の意味では終わってはいない。
けれど、未来に何が起ころうと、恐れる必要は何もない。

この先の人生が決して一人ではないことを、志野はもう知っていた。 






(終)

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