◆◇地上の雪◇◆ 「うわっマジかよ」 ポケットに手を突っ込んだ蓮見黎人は、頼りなくつぶれた煙草のケースをそろそろと引き出した。 あと一本は残っているはずだと過信していた。 いや、みみっちく残り本数を計算していたから、残っているはずだった。 が、未練たらしく紙を破って中味を見ても、むろん、何も入ってはいない。 今朝、休暇で地上に降りたパイロットの椎名恭介に、ダース単位で買ってきてくれと頼んではいる、が、椎名が地上とオデッセイを結ぶ定期シャトルで帰ってくるのは、明日の昼前である。 「……はぁ……」 げんなりしながら、蓮見は空のケースを休憩スペース脇にあるダストボックスに投げ込んだ。 オデッセイ最上階にある通路。その片隅に設けられている休憩スペース。 オデッセイは全艦禁煙だが、そこで吸う仕事が終わったあとの一服は、学生時代、校庭の裏で隠れタバコをこそこそ……で、そこそこいきがって吸っていた頃を彷彿とさせてくれる。 そういえば、一度、担任教師に見つかって、こっぴどく叱られたことがあった。 蓮見はふと、懐かしく思い出す。 プロレスラー並にでかい教師で、みるからに極悪な顔をした男だったが……。 が、 「蓮見」 「…………っっっ」 ぎょっとして、指を口にあてる。 煙草がないのは判っているはずなのに、無意識に、ダストボックスを目で探している。 「……なんだ、そのリアクションは」 「え、はぁ、いや、別に」 その極悪教師に見つかった時でさえ、ここまではびびらなかった、と、蓮見は思う。 けげん気に眉をひそめながら、こちらに歩み寄ってくる上司――右京奏の前ほどには。 「な……なんすか、こんな時間に」 曖昧に目をそらしながら、蓮見は腕時計をちらっと見た、深夜1時少し前。 夜間待機の隊員をのぞけば、全員がおそらく就寝している時間である。 まぁ、この人間不夜城のような女上司にとっては、昼間も同然のような時間なのかもしれないが。 「いや……少し、獅堂のところにな」 右京は短く言うと、蓮見の傍をすり抜けるようにして、自動販売機の前に立った。 「獅堂って……あいつ、待機組っすか」 「今夜のアラート待機組はみかづきだ、そんなことも」 「あ、ああ、いやいや、そうでした、ハイ」 冷たい目でじろっと一瞥される前に、思いっきり忘れていた要撃戦闘機のシフトを慌てて口にする。 「……ま、どうせ今夜は何もないだろう。世間話がつい長引いた」 「はぁ……」 と、曖昧に相槌を打ちながら、この女と獅堂藍の世間話ってなんなんだろう、と、妙に好奇心をかきたてられていた。 間違っても、好きな男とか、映画とか、旅行とかファッションとか……およそ女性がするような華やいだ会話でないことだけは確かだ。 「何の……話……」 右京が自販機のスイッチを押したのか、ガーッと機械がコーヒーをカップに注ぐ音がする。 かすかに振り返った右京の目が、氷河期の世界より冷たい気がして、蓮見は「あ、いや、別に」と慌てて手を振って自分の質問を否定した。 「……この艦にいる男で」 「はぁ」 が、右京は、湯気のたつ紙カップを取り出しながら、普段とおりの口調で続けた。 「誰が一番男前か、話していた」 「は………………はっっ???」 「もっばら、話していたのは、国府田だったが」 「…………あ、はぁ」 な、なんつー心臓に悪い話だ。 蓮見は、にわかに心拍数の激増した胸を押さえる。そ、そうだよな、いくらなんでも、右京と獅堂が……そんな話を。 そのまま何も言わず、右京はベンチに座って、コーヒーに唇を当てた。 その、澄んだガラスのような透明な目は、目の前の特殊強化ガラス――その向こうに広がる地上を遥か離れた天空の夜空を見つめているようだった。 「…………」 どうしよう。 煙草がない以上、ここにいる用事はない。 所在無く頭を掻き、蓮見は自分もコーヒーを飲むべく、自動販売機の前に立った。 このオデッセイ内で、物品を購入する場合、大抵は支給されたIDカードが必要になる。 カードを差込み、それに記録された金銭が、給料からさっぴかれるシステムなのである。たかだかまずい自販のコーヒーくらい無料にしてくれ、といつも思うのだが、そこは税金だから無理もいえない。 「……あれ」 が、そのIDカードもなかった。 ポケットに手を突っ込んでも、手ごたえは何もない。 おかしいな、部屋に忘れたかな――面倒だから、大抵ポケットに入れっぱなしにしてるんだが――。 そう思った時、 すっと背後から伸びて来た手が、カード差込口に、カードを差し込んでくれた。 無論、右京である。 女は無言でカードから手を離すと、そのまま再び、元のようにベンチに座る。 「あ……す、すいません……」 なんつー、みっともない様を……と思いつつ、なんとなく後にも引けず、蓮見はアメリカンコーヒーのスイッチを押した。 「……金、返しますんで、キャッシュでいいすか」 横顔は冷たいまま、返って来る返事はない。 俺……何やってんだ?と思いつつ、蓮見はその場に立ったままで、紙カップを口に運んだ。 ああ――煙草吸いてぇ……。 「国府田は、……遥泉が好きなのか」 ぽつり、と低い声がした。 それが右京の声だと、しばらく認識することもできないまま、蓮見はしばし唖然とする。 「遥……泉、っすか」 「ああ」 「……国府田が」 え……そんな、全員が知ってることを何でいまさら――と、一瞬蓮見は思ったが、同時にそうか、とも思っていた。 右京には、遥泉は特別な男なのだ。警視庁で遥泉の入庁以来、ずっと一緒だった二人の間には、蓮見などには入って行けない、特別な空気が漂っている。 「……ど、どうなんすかね、若い子の心理は、俺にはどうも」 「遥泉は、そんなにいい男かな」 「……ど、…………どうなんすかね」 どういう意味で、そんなこと言ってんだ? これは――もしかして。 少し、面白くない気分になって、蓮見は残りのコーヒーを一気に飲み干した。 これは、もしかして、信じられないが。 嫉妬というやつなのではないだろうか。 「……椎名か…………」 が、次に右京は呟いた。 「??」 蓮見はますます混乱する。 「いや……私は一般的な感覚とずれているのかもしれないと思ってな」 「はぁ……」 ようやく蓮見は合点がいった。 それはもしかして、獅堂の好み――の男、という意味なのだろうか。 「それ……あれっすか、その、誰がいい男かっていう」 「まぁな」 「…………」 ずれてるって……どういうことだろうか。 この女は、じゃあ、誰を――俗に言ういい男だと思ったんだろうか。 「え、……えーと」 何故か蓮見は咳払いをした。 「し、室長は……その、その話については」 「しつこく聞かれたから、正直に言った。私は、鷹宮だと思う」 「………………………………」 「そう言ったら、獅堂のリアクションがすごかった、私は何か間違ったことを言った気になってしまったんだが」 「……は、はぁ……」 そりゃあ……そうだ。 唖然としつつ、それでも蓮見も納得した。 一般的に見れば、容姿、スタイル共に抜きん出ているのは、パイロットの鷹宮篤志だ。 長身で、怖いほど美貌の右京に、ビジュアル的につりあう男は、そういわれてみれば鷹宮を置いてない、ないのだが――。 「なんだ、奇妙な顔をして」 「いや……あんたでも、そんなこと言うのかな、と思いまして」 「聞かれたから、言ったまでだ」 むっとした目で見返される。 「いや……言うっていうか、思ってたこと自体信じられないっつーか」 どう言っていいか判らず、蓮見は困惑して首筋を掻く。 「…………もう、一年近く一緒にいる」 女の声のトーンが、どこか和らいだものになった。 「……鷹宮と……すか」 「いや、ここにいるみんなとだ」 何故か蓮見は、その返答にほっとして、そのほっとした自分に戸惑った。 右京は前を見つめたまま、柔らかな口調で言葉を繋ぐ。 「……こんなに他人と、ほとんど年中、一緒にいたのは初めてだ。……色んなものが見えてくるし、感じ方も変わってくる」 「…………」 「以前は、人を、私は記号としてしか捕らえていなかったように思う。まぁ確かに、ここに来る前の私なら、死んでもそんなことは言わなかっただろうな」 あ、まただよ。 と、思いつつ、蓮見は右京から視線を逸らした。 こんな――女みたいな優しい声で話されると、マジで妙な気分になる。 「……地上は……雪が降っているらしい」 「そうっすか」 「うん」 そのまま口をつぐんだ女の傍らに立ったまま、蓮見もまた、何も言えなくなっていた。 地上を離れた天では、地上に降る雪は見えない。 それでも、夜の闇を二人して見つめている。まるで、見えない何かを無言で探しているように――。 「じゃあ、戻る」 やがて、すっくと右京が立ち上がった。 「あ、……は、はぁ」 蓮見も慌てて、右京から一歩後退する。 「喫煙もほどほどにしろ、私の一番傍にいるお前がそれでは、示しがつかない」 「いや……その、別に吸ってたわけじゃ」 じっと見あげられ、思わず困惑して、髪に手を当てていた。 「丁度切れてて、あ……、いやいや、つか、ずっと禁煙してると口寂しくて、何か飴でもあれば、ちょっとは持つんすけど」 「…………」 「すいません……し、週に一本って、まぁ、決めてはいるんすが」 それは、思いっきり嘘だったが、何故か女は動かないまま、薄闇の中、じっと蓮見を見上げているようだった。 「じゃあ、飴をやろう」 「…………は?」 「目をつむっていろ」 「………………」 ―――は……?? な、なんだ? これって……あれか?ふ、ふつーに考えれば、なんていうか、こう……いい感じっていうか、でも、まさか、この女に限って―――。 相当がちがちになりつつも、蓮見は目を閉じていた。 右京の香りが――ふっと、匂うように鼻先に触れる。 「……捨てようかとも思ったが」 呟くような声と共に、ぐっと唇に異物感が触れた。 ―――? 異物感――というより、しっくりと馴染んだ感触。 「…………」 蓮見は呆然と目を開いた。 「私の部屋のソファに落ちていた」 「……はぁ」 指で、口に押し込まれた煙草に触れる。やはり数え間違いではなかった最後の一本。 「目をつむってやる、さっさと吸って寝ろ」 そのまま、空になった紙カップをダストボックスに投げ込み、右京は綺麗な背中を向けた。 「あ……金は」 蓮見は慌てて、ポケットに手を突っ込む。 借りたコーヒー代、いくら上司とは言え、年下の女におごられたくはない。 「IDカードはお前のものだ」 遠ざかる背中から、そっけないほど冷たい声がかえってきた。 「煙草と一緒に落ちていた。そんなことにも気づかなかったか。真性の莫迦だな、お前は」 「…………」 そう言えば、自販機に差し込んだままのIDカード。 そりゃあ……莫迦だ。 が、いつになく右京が怒っているのはなんなんだ? 蓮見は首をひねりながら頭を掻き、再び煙草を口にはさんで、ライターを取り出した。 「…………」 何故か、そのまま、この煙草を吸ってしまうのが、惜しい気がした。 何故だろう。 ライターをポケットに滑らせ、蓮見は、夜の闇に目を向けた。 ――――地上の、雪か……。 ここからは決して見えないけど、確かに静かに積もっていくもの。 鼻先に、一瞬触れた右京の髪の匂いがしたような気がした。 終 |
(注)初期のオデッセイ時代、 ちょうど……右京の怪我がなおりきったくらいの時期です。 |